訛った言葉で好意を伝えてくる。
「われを好きなわしゃぁ嫌か?」
冗談なのか、本気なのかいたずらに笑いながら俺を見る君の顔がどうにも好きだった。
長距離を走ったように息切れを起こしそうだ
心臓が痛く苦しい。高鳴りが隠せない。
「映画を見に行かないか!」
腕を掴んでそんな身も蓋もないことを言う。その日はただうざったいくらい暑い中で、ジメジメと限界に近づいた心に終止符を打とうとしただけなのだ。
「出会いは偶然、別れは必然」という言葉があるように人間関係というのは案外すぐに崩れるものである。
少なくとも俺はそう定義しているということにしておこう。けれど出会う時や別れる時なんて誰でもわかる訳でもないのもまた事実なもので、あいつとの出会いもあまりに偶然的で、けれどもそうなるのも納得がいくようで、なるべく会いたくなるような、できるなら会いたくなかったような奴だった。
ここまで言うのも理由がある。
手を引かれ崖に立って、好きだと言われた。
「海で死ねば綺麗な星が海の中から見放題なのよ?」
他の言語を話されたように理解できない。無を知った。意味をなさない言葉。夜の風が痛いほど頬をかすめたあの日。
共に落ちる中、繋がれた幼なじみの手を離す。
途端の強い衝撃。最後に見た女の顔、あいつの表情はこれ以上ないほど笑ってしまうほどにに無だった。
そいつの顔はあのキチガイ女に似ていた。あいつの顔を見てはまた、あの女を思い出してしまって、また額の傷口を痛めるのだ。目の形。ホクロの位置。笑った姿。思い出す。全てが嫌いだった訳でもなかったのに。
ただ特別愛していた訳でもない女に心中しようと言われ、殺されそうになるのが気持ち悪かった。けれどもしあの日押しのけてしまったとしても関係性は終わってしまうのだろう。きっと彼女は自殺する。どっちにしろ俺はきっと悪者になってしまう。それなら俺は彼女と幼なじみであったままのほうがきっと幸せだった。
棺の女の酷く膨らんだ顔を覗いて、女の兄から殴られた頬を頭から額の傷の順番に撫で下ろした。私の家族と相手の両親は理解こそ示してくれたが隣人間の仲に傷が付いてしまったし、けれどただ答えが欲しかった。どうして彼女の愛に上手く答えられなかったのだろう。なぜこの気持ちを言葉にできないのだろう。
下ろした手で線香に火を灯す。得られたのは答えでなく結局は痛みだけだった。
そんな痛みを思い出して、あいつと距離をとる。
そんな日々。
名 岩崎 健太郎
大正十四年 五月五日 火曜日
東京都中央区銀座で時計屋を営む家庭にて四番目の子供として生まれる。
家族構成は 父、母、姉、兄、兄、弟、妹である。
語学に優れており、七ヶ月半で話し始め、十歳にして漢語と朝鮮語を家庭教師から習い、日常会話を話せるようになる。そして、英語も共に勉強し始める。その他の教科も人並み以上にこなし、語学の他には特に図画が優れていた。
全ての大人たちが彼を褒めたたえる中、長男が通っている七年制高校への進学が望まれており、本人自身も進学を望んでいたようで。猛勉強の末
見事合格。
今の周りから見た自分のことを言えばきっとこんな感じなのだろう。
「鬼才」
けれどこんなことはただの過大評価に過ぎず、勉強し始めた理由なんかは実際はもっとしょうもない。漢語や朝鮮語なんかは私にとって勉強したとしてもいらないものだった。けれど私の場合は環境のせいで勉強をする羽目になったのだ。店の支払い場に立てば金持ちの漢民族や朝鮮民族が私の方を見ては無駄にでかい言葉で怒鳴ってきたり、バカやノロマとか言ってくるのだ。しかもバカにニヤニヤしながら自分の国の言語で話してきやがる。言葉が分からないからと言ってなんでも言っていい訳でもないだろう。決心したのは四つの頃。親が何を言ってるのか分からずオドオドしている様子を見ては笑っているやつらが腹立たしかった。それを見返すために、ただそれだけのことだけで勉強しただけということなのだ。家の歴史書や漢文、朝鮮語の本を読み漁る日々だった。英語も同じ理由。そうした末そういうことを言われる度に同じ言語で返してやって、相手の恥ずかしそうな顔を見ては内心喜んだ。そうだ、これはただの自己満足なのだ。国際的なことをしたい訳でもなく、実家の手伝いをしたい訳でもない。
ただ、勘違いして欲しくないのは客の中には優しい人達もいて、直接教えてもらうこともできたということだ。英国人には「Please tell me how to pronounce it」漢民族には「请告诉我怎么发音」なんて言ってしまえば教えて貰えることが出来て、それを聞いた人達は自国の言葉を理解してもらえるというのはやはり嬉しいらしく、高い時計を買ってくれることもあったし、お小遣いやお菓子をくれることもあった。それらを貰った私はさらに頑張ろうと思えた。
けれど勉強することは元から嫌いだ。両親から出された課題と学校の課題をしようとした途端背負っていた弟は泣き出すし、妹が引っ付いてくる。家に侍女はいたものの一人しかおらず、ただでかいだけの家を掃除するだけで手一杯なのだろう。子供のことまではあまり手が回っていなかった。姉さんは隣町に住んでいるし、兄さん達は学校で、両親は仕事。家にいるのは小学校から早く帰った私だけ。そうとなれば子守りをするのは私だけになるだろう。
子供が子供を子守りする。今の時代、そこらじゅうで見かける光景だ。特別なことでもなんでもない。野暮なことを言うが私は子守りの時間も嫌いだった。嫌いなものを足し合わせても結局良くなんてならない。ネズミが虫の死骸を食べていても、虫がネズミの死骸を食べていても気持ち悪さしか産まないだろうし。
そもそも七年制高校なんか行きたくなかった。両親はさぞ私が嬉々として志望したかのように話すが志願は無理やり書かされたものだった。涙を流して文字が滲んではまた書き直された。「泣くなんて男として恥ずかしくないのか」「兄を見習え」散々罵倒された。そのせいで出願が通ってしまったのが一番悔しかった。そうしてズルズルと荒い土の上で引っ張られるように痛く、苦しく、見苦しい時間がすぎていき、私はついに「七年制高校生」と言われるものになってしまったのだ。
両親のことは心から嫌いというわけでもなかった。尊敬だってしていたし、憧れだった。こうして私を七年制高校へ行くように勉強させていたのも、将来的な理由だろう。けれど私には夢があった。子供らしくも純粋な夢。
本当は航空隊になって、空を飛び回りたかった。空は何よりも自由だ。何も考えなくていいはずだ。お国のためになんかとか言う立派な理由ではなく、ただ自分の為だけにそんなことを思っていた。
店の前を掃除していると度々航空隊の練習機が太陽の光に照らされながらうちの店の上を飛び回る姿を見た。とても綺麗で、とてもかっこよかった。私もあんな風になれたらいいなという思いだった。
けれど帝国大学への進学が約束されたこの学校だ。両親的にもそんなことはさせたくないだろう。ちゃんとした飛行機の知識を貯えるために、予科練生にもなりたかったが今はまだ年齢的にも無理がある。絶対になってやるとは思うが、それが実現されるとすれば果たしていつなのだろうか。いや、もう無理かもしれん。そんなことを言ってしまえば、また罵倒される。諦めるしかないだろう。私はきっとなりたい自分にも何者にもなれない。航空隊以外で働く姿が想像できない。
そして高校へ行く丁度一ヶ月前、突然隣の家の幼なじみが
「今夜出かけましょう。話したいことがあるの」
そう言ってきた。女の名前は佐竹 ちづという。
見た目はあどけない少女であり、肩に下がった長いお下げと病弱な肌が印象的だった。顔もよく、頭も割り方良い方だったが、そんなものを台無しにしてしまうほどに彼女は頭がおかしかった。
私の後をつけてきては偶然出会ったかのように話しかけ、家のゴミを漁り、酷い時は家の中に無断で入って私の物をくすねることなどがあった。まさにキチガイだ。嫌な予感がし、最初は断ったが無理やり腕を引かれ、崖の縁に立たされ心中しようと言われた。。こんな女と心中なんて嫌に決まってる。キチガイとなんか―――
そして今、
目を合わせ ゆっくり息を吸い 息を飲む
強い風に押されるように女の背について行く。もう逃げられないことは分かっていた。
ため息をついた
何にもなれないのなら死んでしまった方がマシなのではないか。そんな考えが一瞬頭をよぎった。ああ、俺もキチガイになっている。死にたいなんて思ってしまうなんて。
妙に悲しい気持ちで喉が詰まってしまう。
女は言う「あなたがいないと私、きっと耐えられる気がしないの」
それもそうだろう。このキチガイの生きがいは何故か俺になっているのだから。七年制高校へ行くことも、寮生の高校だと言うこともこいつには一言も言っていないのに、そんな所まで把握しているなんて逆に尊敬する。私にもそれくらい熱中するものが欲しかった。羨ましいものだな。
死のう
そう思った後の行動は早かった。
きっと生きてる意味なんてない。夢なんてかないっこない
無理やり腕を開き抱き合い
触りたくもない手を取り合って
一秒にも満たない口付けをして
愛していたふりをして
跳んで、「落ちる」
「―落ちる」
「――落ちる」
「―――オチル」
「――――おちる」
「―――――墜ちる?」
「このまま?」
「死ぬのか?」
「本当に航空隊になれないまま?」
「夢を叶えられないまま?」
「そりゃないだろう神様」
急に苛ついた。腹が立った。自己中心的な自分に。
夢ばっかりで、行動なんてしないただの馬鹿野郎。
気付いた時にはそいつの手を放していた。
海でも地上でもない場所で
そして女の顔を見て、笑って言ってやった。
「星はもっと近い方で見たほうが綺麗だろ?」
清々しい気分で空を見上げる
ガッ
途端にそんな音がした。
それは俺の額が崖から飛び出た岩に叩きつけられる音だった。
途端に海に落ちる
――――――――――――――――――――――
何でもないように目覚めゆっくりと体を起こす。身体の痛みはなく、ただ腕や足が麻痺したように痺れている。
「ケンタッ!」
略された名前を呼ばれ、腕が伸びてくる
「―――ねーちゃん痛い」
馬鹿みたいな力の腕が腰に巻き付いて、痺れが一気に全身に広がった。
姉の椿は結婚して隣町に住んでおり、会うのは久方ぶりではあったが、そこまで懐かしさを感じることは無かった。何しろ隣町であったとしても、姉の噂は何故か流れてくるのだから。こそ泥を捕まえたり、迷子を送り届けたりなど、警察の仕事が全て取られるくらいの仕事ぶりだそうだ。実際はただの主婦なのだが。姉は昔から正義感だけは異常に強かった。いや、それよりも強いものがあった。
ミシミシと骨が鳴る音が聞こえる。
この馬鹿力だ。
ほぼ無理やり姉を剥がした後、力が抜けたように横たわった。本当ならば今日は寮へ荷物を運ぶ日だったのだが、怪我があるということもあり病院のベットから動けずにいた。
あの日からだいたい三日ぐらいたっただろうか。三日間といえどもたくさんのことがあった。血を垂らしながら浅瀬に浮かぶ姿を近くにいた漁師に発見され、すぐさま病院へ運ばれ、手術をし、額を八針縫う羽目になった。
身体には幸い目立った損傷はなく、打撲とアザが残る程度だった。
女は死んだ。
目覚めてすぐ、そんなことを聞いた。昨日やっと見つかって、今日は葬式らしい。嫌だとは思うが来てやってくれと女の両親に言われ、痛めた身体を引きずりながら病院を抜け出して葬式へ行く。
参列に並んで、ある男と顔を合わせる
すぐさま拳が飛んできた。
左頬に直撃する。
女の兄だった。
どうも女は遺書を残していたそうで
しかし、彼は女が今までやったことを知らないらしい。
遺書に自分のやったことぐらい書いて欲しいものだよ。
両親もすごいもんだよ、息子に真実を話さないとか。
そんなことが優しさに繋がると思ってることとか。
―――まさに無駄だな。
「ほんと、誰の得になるのだか」
殴られた頬をそっと撫でる。
無心で棺の中を覗いて、無心で線香に火を灯す。揺れる煙がやけに鼻の奥を突いてくるのを感じた。けれどその白い煙の形はまるで女の揺れるおさげのようで、
「ケンちゃん!」
こちらを振り向いて名前を呼んでくる。
「―――はぁ」
きっと疲れてる。俺はこの女のことが嫌いだったはずだ。清々しい気分で突き放したのに。
なのに、どうして―――
また顔をなでおろして、傷に触れて、誰にも聞こえないぐらいの声で、嗚咽混じりで答える。
「―――ちづ」
そう彼女の名を呼んだ。
いつもはどんなに小さくても応えてくれる返事はどれだけ待っても帰って来てはくれなかった。
けれど煙になって振り返った彼女の顔は笑ってしまうほどに綺麗だった。
一粒、一粒と握った拳の上に雫が落ちてゆく。本当にこんなことは誰の得にもならない。言葉にできない渦巻く不安定感。
言い訳を沢山した。そうしてもちづは帰ってこない。そんなことは分かっていた。
「―――幼なじみのままが良かった」
きっとそれだけは本心だったと思う。
彼女がいつからこうなったのか分からなかった。彼女への言葉。言葉。見つからない。そんな都合のいい言葉。意味をなさない言葉。
「俺は彼女が好きであり、嫌いでもあったのか」
また存在する言葉で誤魔化した。
――――――――――――――――――――――
四月の風に運ばれ、寮に足を運ぶ。
この寮は五人部屋で、今まで暮らしてきた家と比べものにならないほどに窮屈だった。
しかも女の兄がいた。なんでこいつがいる空間で川の字になってまで寝なければいけないのか。
そんなことを思っては、後ろから睨まれていることを背中で感じた。
冷や汗が止まらない。
体調も悪い。
あれから家族以外の女がめっきりだめになってしまった。話せない。男であったとしても、相手の顔を見ることが出来ない。見ようとしても黒い霧のようなものが顔にかかっている。きっと怖いんだ。きっとまた被害者ヅラしてしまうから。どっちが悪いのか見分けがつかなくなってしまうから。
下を向いて生きていこう。そうすれば何にもならないはず。
同じ学年のやつの顔も、先輩方の顔も見れない。見られない。
入学式も終わり、ただ俯いて本を読む。
伝えられた言葉なんか適当にあしらって、そしてまた下を向く。
春が過ぎ、夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬が過ぎ、また春が来る。そんなことをずっと繰り返すだけ。簡単な事だ。
簡単な事。
――――――――――――――――――――――
この前から俺を見る目線が増えた気がする。
しかも嫌いとかいった感じでなく、単なる好機の目線。
誰かはなんとなく予想がつく。同じ部屋の鳥射だ。寮内でも同じような目線で見られているからな。きっと額の傷でも気になっているのだろう。このクソみたいな傷跡が。
鳥射。以前聞いたことある名前だ。なかなか見ない名前だから覚えてる。確か家の時計の部品を売っているところの親会社だ。西日本の会社だがこちら側に軍事用品もそこそこ生産してたはず。そんなでかい会社の息子がこんなところに通っているとは。
「―――仲良くなれば時計屋を大きくして貰えて、父さん達にも褒めてもらえて、予科練の試験を受けさせてもらえる?」
そんなわけが無い。駄目だ。駄目なことを思いついてしまう。
利用したくない。また引きずり込んでしまう。身勝手な行動に。
耐える。耐えろ。耐えてくれ。
無理に抑えて自分に問いかける。
クズにはなりたくないだろう?
もう既にクズになっているのはわかっていたが、まだ自分は大丈夫なはずだと心が受け付けないのだ。
そうやって耐えている俺を知ってか知らずか、こいつは何回も何回も何回も話しかけてくる。今日の授業のこととか簡単な会話だが、一言であったとしてもその言葉がずっと心に刺さってくる。広島訛りの標準語がゆっくりと、ジリジリと。
俺はその度適当な言葉で返す
そうすることで、一日が過ぎ、二日が過ぎ、三日が過ぎ、一週間が過ぎ、一ヶ月が過ぎ、半年が過ぎ、一年が過ぎてくれる。
それは今までの中で一番遅い一年だった。新しい環境だったからという理由もあっただろうが、心はずっと窮屈で、何かを考えることもままならず。正常なフリ。そんなままでいることだけが今は幸せ?だった。
主人公というものが羨ましい。なぜならその人種は報われることがほとんどだからだ。何をしても上手くいく。辛かったのは過去だけで、生きているだけで仲間に恵まれ、最適な終盤を迎えられるのだから。
そう思いながら手元に閉じられた走れメロスの表紙を撫でる。
――――――――――――――――――――――
二年生になって、若干伸びた背を縮めて酷く混んだバスに二人で乗り込む。軽く息をついてもう一人が目視できる範囲にいることを確認し、手すりに捕まる。学校終わりの真昼間からこんなことをしていて自分ながら馬鹿だと思う。こんなことするぐらいなら勉強していた方がマシだ。ジリリリとセミの声が耳に酷く残る。
しばらく乗ったバスを降りた先には商店街が並んでおり、小さい頃に行ったことがある映画館でとりあえず目に止まった一番時間の近い映画のチケットを購入する。二階の席は客があまりおらず、言ってしまえばほぼ貸切状態だった。そいつは映画を見たことがないらしく、興奮してかあたりを何回も見回していた。
そんな子供のようなこいつを差し置いて俺は金の心配などせず。ただ今は話す内容を考えている。
心臓の鼓動が聞こえるぐらいの緊張の中で伝えた。
「映画を見に行こう」
結局俺はこいつを利用するしかなかった。ただ暑苦しい虫の声のせいにしたいくらいに腹立たしい。限界だった。部屋の机で本を読んでいると、こいつが急に本の話をしてきて、その本が元海軍兵士が執筆したものだからか、それから将来は兵になりたいなんてことを言い出した。そして俺の将来の夢も聞いてきたのだ。俺は何も答えられなかったが、その時から黒い霧はかなり濃くなって、顔の形も分からないほどになっていた。夢。俺はまた同じ道を歩くのか。そうも思ってちづの顔を思い出すと、泣きそうになったがそんな姿をこいつに見られたら変に思われそうで必死にこらえた。どれだけクズになれば気が済むのだろうか。けれどこいつが嬉しそうな声で
「ええの!?」
そう言ってくれたのがせめてもの救いだと思う。
いや逆だな。嬉しそうな声は結局俺を苦しめるんだ。
変に考え込んでいるといつの間にか映画は終盤に差し掛かっていた。相変わらず顔は見えないが主人公が好きな人に告白する場面だ。
「あ、これ恋愛映画だったのか」
不意にそんなことを口ずさんだ。
「ずっと好きだった」
「―――私も」
そんな無意味な言葉を口にしたあと男女はキスをした。幸せそうに、お互いの愛を確かめ合うように。
つまらない
男女の仲などただの妄想に過ぎないのだ。たとえそれが映画でなく現実であったとしても。
あまりのつまらなさに欠伸をした。
けれどこいつもそうとは思わないらしい。ふいに左の席を見ると気まずそうに指を弄っているんだから。
女みたいになよなよしい。俺の家なら殴られて無理やり男らしさを強制されるのが普通なのに。
羨ましいものだ。こいつはきっと今だけは何にも縛られず自由に生きられるんだろうから。さぞかし優しい親なんだろう。卒業したとしてもどうせ家業を継ぐから自由にさせているのか?きっと兵士になりたいなんて口先だけの戯言だ。俺のほうがなりたいに決まっている。
きっとこいつには傷すらついたこともないのだろう。ただの有利な人生。俺みたいに特別変でもなく、普通に大切にされた普通の人間。
普通の人間とはどのような顔なのだろう。―――傷すら付いていないこいつはどんな顔をしているのか。
そう考えてしまうとなんとなく気になってしょうがなくなって映画なんて頭に入ってこない。
またこいつの顔があるであろう方をちらっと覗く。
「―――」
頬があるであろう場所に手を伸ばし、絹のように滑らかな肌をそっと撫で下ろす。
「わっ!ど、どうした!?」
動揺したのか焦ったように鳥討は身を後ろへ引く。
「―――いや、何でも」
瞬く間に霧は広がり、ついに首元まで隠れてしまった。けれど、見えなくとも顔は存在しているようでなんとなく安心した。
帰る時、鳥討はずっと黙ったままで見るからに気まずそうだった。―――まあそうだよな。恋愛映画見た後にされたら普通驚くか。
「何してんだろ。俺」
帰ったあと布団の上で静かに目を閉じる。
次はどこに行こうかとただ悩んでいた。
だってそうしないと仲良くなれないから。
夢なんて叶いっこなくなる。
―――明日は顔見れたらいいな
そうは思うが、きっともうこいつの顔はもう俺には見られないとも、なんとなく思った。そんなことはとっくに分かってたし。
クズにはクズなりの夢があるのだ
わかって欲しいとは言わないし言えない
きっとこんなのも、ただの妄想に過ぎないんだ。お前は存在してくれていないんだろう?存在してしまうと都合が良すぎるんだ。
心のなかで言い訳をして、だれかのむせたような咳が部屋に響く中俺は死ぬように眠った。
――――――――――――――――――――――
学校を出てしばらく行くと西洋風の建物が並んだ一見するとここが日本であることを忘れるような場所がある。そこの喫茶店のコーヒーがまた格別なのだと千葉という同室の先輩が言っていた。
「ドイツ人が経営してんだ。味も悪くない。まあ俺の育ったフランスには負けるがな」自慢げに短い髪を揺らす帰国子女の千葉を適当にあしらい、そして俺はすぐさまそこへの行き方を書いたメモを貰い、鳥討を探した。
「―――お前、俺になんか変な気でも起こしとるんか?」
喫茶店に着くと開口一番こんなことを言われ変に腹が立った。そんなことでお前を誘うわけが無いだろう。俺の幻覚のくせにどうして都合よくならないんだ。
「ちげーよ、ただの友達としての好だ」
適当に思いついた言葉を少し笑いながら返す。友達なんかは本当に要らなかったが、ここにいる理由だけを作る為だけにこの偽りの関係を利用した。
「ともだち?」
鳥討はそんな言葉が不思議なのか、疑問形でぽつりとそんなことを言った。
「なあ、いわさ―――
「ゴチュウモンハオキマリデスカ?」
なにか喋ろうとした鳥討を遮って外国人のマスターがカタコトの日本語で話しかけてきた。
俺はそいつが言おうとした言葉なんかは気にもとめなかった。どうせ後で話そうとしてくるだろうし。
「コーヒーを一杯ください。あとこいつは―――」
「あいすくりいむを一つ」
マスターは軽い会釈をしてカウンターに入っていった。
「驚いた。ガキみたいなものを頼むんだな」
そう言って何気ない会話を振ってやる。鳥討はしばらく考えて、
「食べたこと無かったから食べてみたくて」
と確かにそう言った。どんなぼんぼんであってもさすがに食べたことが無いものもあるだろう。変に納得して、運ばれたコーヒーに牛乳と砂糖を入れてゆっくりとかき混ぜる。ひとくち含むだけでコーヒー特有の苦味が口いっぱいに広がった。足りない。もっとよこせと言わんばかりに牛乳のまろやかさも消えていく。
「岩崎は俺の事友達だなんて思ってないんだろ?」
時間が止まる。
なぜそう思ったのかは知らんが内心を読まれた気がして冷汗が止まらなくなった。
「なんでそう思った」
「変に思うかもしれんが、お前の目が父上と同じに見えて―――。本当はお前も俺なんかには興味なんてないんだろ?無関心なんだろ?」
―――こいつは何を言っている。興味?父上?同じ目?なんの事だ。
「無関心は俺にもお前にも毒になる。俺を利用したいと言うのならやめておけ。利益がない」
利益という言葉に体がピクっと反応する。いつもとは違うこいつの訛ってすらいない標準語が気持ち悪い。
今はまた適当な言葉を返すしか無かった。
「俺はそうは思わんがな」
果たして利益はあるという意味なのか、友達であるという意味なのか。どちらの意味で言った言葉なのか。それは俺にも分からなかった。
またなにか言おうとした鳥討の目の前にアイスクリームが運ばれる。
よく分からない状況に頭の整理が間に合わない。バレていた?でもバレてるってことは利用しようとしてもできない状態だということだ。
―――良かった。もう引きずり込めない。
けれど気まずいのは変わらず、気晴らしに中身が少し残ったカップを覗く。少し傾けると溶けきらなかった砂糖が底でキラキラと輝いている。あの夜のあの星のように。満天の星が広がっていく。
ふと目の前を見る。
目が合った。
死んだ目。光すら入ってこないほどの漆黒さ。目しか見えないのに、ずっとその目に吸い込まれる。黒い霧も広がっていく。こいつの口に運ばれていくアイスクリーム。ゆっくり、ゆっくりと溶けていく。見えなくても何となく想像できるあどけない表情、手だけで分かる病的な白い肌、そんなのまるで、まるで―――
「ちづ?」
「―――はあい」
黒く染まりきった鳥討。俺の目の前には不敵に微笑むちづの影がいた。
俺はなにかに気づいたようにちづに心の中で問いかける。
「きっと俺もお前と同類なんだろう。成り下がってしまったんだな。叶いっこない夢を永遠と追いかけてる」
「ええそうね」
昔のように嬉しそうには答えてはくれなかった。
「で、お前は俺にどうして欲しいんだ。この黒いやつお前のせいだろ?」
「違うわよ」
案外バッサリ切り捨てられて何も言えなくなる。
ちづは続ける。
「この黒いものもあなたが勝手に作ったものなのよ?言ってしまえばただの幻覚ね。だって私もあなたが作ったただの幻覚に過ぎないんだから」
そんなの知ってる。でもせめてもの救いが欲しい。
「死んだ君がずっと羨ましい俺はもう死んでしまいたいんだ。もう疲れた。夢だってもう叶わないし」
夢を叶えるために突き放した相手に堂々と死にたいなんてことを口走る。どうせ幻覚だ。何を言ってもこいつは傷つかない。
「何が現実なのかも俺には分からんよ。きっと鳥討も、ここも、全て俺の妄想に過ぎん。本当は俺は死んでいるんだろう。こんなのただの天罰だよ」
「あらよくゆうわね、そんな中で好きな人は出来たくせに」
まただ。また、よくわからない言葉。ほんとに昔からこいつは変な言葉しか話さん。本当に面倒臭い。このキチガイめ。
「あなたはただそっぽ向いてるだけなのよ。こんなもののせいにして」
ちづはゆっくりと黒い霧をかき分けた。小さな虫を払い除けるように。
俺の目の前には溶けてすくうことも出来ないアイスクリームが残った器と、小銭が置いてあるだけだった。
「鳥討―――?」
肝心の本人は居ない。
「ちがう、こいつはただの都合がいいだけの幻覚なんだ。存在するはずなんてない。お前なんか居なくても、俺は―――」
よく分からない気持ちでいると机の上に力強く握った拳から血がぽたぽたと落ちる。
「本当はわかってたんでしょ。全部」
「は?」
その言葉を聞いた瞬間。重いまぶたがパチリと音を立てて開ききる。
俺は小銭を店主に渡して、釣りすら貰わず、鳥討を走って追いかける。
こんな気持ち初めてだ。
いつしか見たメロスのように走って、走って、走って、息切れを起こしながら、無様に転んで、
はぁ、はぁ、
こんなに走ったのはいつぶりだろうか、肺が破れそうなほどの空気を吸い込んだ。だが、なぜか体は新鮮な空気を欲しがらない。吸った瞬間に倦怠感と吐き気が襲う。
目の前には一人、とぼとぼと歩くあいつの姿。
セミの鳴き声がうざったいほど耳についてくる。
こんな感情になるのはきっと夏のせいだ。息をするのも苦しい。ただ今だけは君のことを考えていたいのに。本当のことを知りたい。伝えたい。存在を確かめたい。
前を進む腕を緊張の中で力強く掴む、
そして告げる
「映画を見に行かないか!」
そこには勢いよく振り向いた、雨に濡れた黒曜石のような目が良く似合う顔立ちで、優美なあどけなさが印象的な愛おしさすら覚えるお前がいた。
お前は口を開く
「ほんとよく分からんやつだな―――お前は」
泣きそうな声で、泣きそうな目で、そうお前は笑顔で振り向いた。
あぁ、幻覚じゃなかったお前は存在していてくれたんだな。
鼓動が早くなる。ゆっくり。ゆっくりと、時間をかけて
俺はお前ともっと話したい。君を知りたい。
そして、つまらないし、お前を悲しませてしまうかもしれないけど、お前を利用してでも俺は夢を叶えたい。
でも、その代わり、絶対にお前を幸せにしてやる。
そう勝手に誓った
自分勝手がすぎる
自分の気持ちが分からなくなってゆくこんなの自分ですらない。
――――――――――――――――――――――
普通というものにはこいつは慣れていないらしい。こいつは箱入り息子でなかなか外には出られず、出るとしてもここに来る前は敷地内や小学校へ行くための決まった道だけしか出られなかったそうだ。遊び相手も兄弟としか許されなかったようで。俺もたしかに出られるところは制限はされていたがここまでではなかったと思う。
それほど親に溺愛されているからなのか?さすが大富豪だ。としか言いようがない。
「そんなくせに金はねえんだよな」
ぎこちなくアイスクリームを食べる鳥討を横目にそんなことをつぶやく。
最近は中国との戦争のせいなのか物価が高騰している。俺にとってはあまり困ることでは無いが、鳥討にとってはそうもいかないらしく、家からの仕送りすらまともにないようで、好きになったアイスクリームすら食べられないようだ。
「すまない。資本家の息子が金欠なんてなあ」
あまりに申し訳なさそうに笑いながら顔を俯かせるので、文句すら言う気にならなかった。
「別にいい。好きな物は好きなだけ食べたい気持ちも分かる」
俺はゆっくりと机に置かれたティーカップを混ぜる。
「いつか何かの形で返すから―――」
急な言葉だったがいまいち驚きもない。
「ああ、いつかな」
今すぐにでもそれを形にして欲しいとは内心思ったが、さすがに口にする勇気は俺にはなかった。
「お前は将来何になりたいんだ?」
しばらく沈黙が続く中そんな言葉が投げかけられる。
「俺は…」
また沈黙が続く。言っていい事なのか分からないまま。時間が過ぎる。ほら、夢は言うと叶わないなんて言葉もあるだろう?口は開くが肝心の言葉が出てこない。こいつは俺の家が時計屋だということを知ってる。きっとこんな無責任な夢なんて笑われてしまうだろう。そろそろこんなことに慣れてしまいたい。無責任なのは元からだし、鳥討はこんなことで笑う奴ではない。俺の口から出る一言一言がいちいち俺自身を悩ませる。
ふと前を見るとアイスクリームが溶けて染み込んだウエハースをまるで貴族かのように上品に食べる鳥討がいた。こちらのことをたまに気にして、ちらちらとこっちに目を合わせていた。
ウエハースを食べ終わった鳥討が痺れを切らして言う。
「こんな話去年もした気がする。お前も相変わらずだな」
そんな気を使った言葉をかけられる。
なんだか情けなく感じるし、呆気なくも感じる。
店主に小銭を渡してゆっくりと二人でバス停まで歩く。
その道中飛行場から飛び立ったばかりか着陸前なのか一機の飛行機が一直線に飛んでいた。
無意識のうちに目で追いかけた。
そんなの姿を見てか鳥討は聖母のようなほほ笑みで、
「どんな夢であっても、俺は素敵だと思うぞ」
そう言ってきた。
こいつは心でも読めるのだろうか。
「その言葉遣い気味が悪いな」
こんな言葉しか今は浮かばなかった。
言われた言葉が心外だったのか、ぺちぺちと叩いてくる鳥討を見ていると笑いが込み上げてきた。
先輩方から柔道の練習を受けているくせに、力も弱い。だからすぐ投げられるのだ。
本当に女々しいやつだ。
「本当に、可愛いやつだなお前は」
「っ!なんじゃお前!」
背中をバチンと叩かれた。微妙に痛い。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
年末の大掃除の手伝いをそそくさと終わらせて洋室の弱まった暖炉の火に薪をくべる。暖炉の火は喜んでいるようにぱちぱちと音を立てながら薪を食べている。そんな様子を眺めながら俺はよく冷えた霜焼けの手足をそっちへ向けた。
「ケンタ!よくもまあ友達が掃除を手伝ってくれてる中で一人だけ温まろうと思えるねぇ!」
振り返るとそこには鬼のような顔をした姉の姿があった。
「うげ、ねーちゃんかよ」
「ねーちゃんかよじゃないわよ!さっさと手伝いな。このボンクラ!」
バタバタと急ぎ足で出ていく姉を見送った後、馬鹿力女からの暴力は受けたくないので仕方なく重い腰をあげようとはしたが、その前にそばに置いてあった畳んだばかりの半纏を引き寄せようと寝ながら足を伸ばした。
「あの、お姉さん。この荷物はここでええですか?」
「あら、ありがとうね鳥討クン。いやあ、うちの弟たちとは大違いね。取り替えたいぐらいだわ―――」
隣の部屋から聞こえる急な鳥討の声に焦りながら、すぐさま立ち上がりもう少しで足が届きそうだった半纏を手で拾い、それを重ねて着る。聞き耳を立てると鳥討の「いえいえ」と謙遜する声が聞こえた。姉はまだまだ話し足りなさそうなのでもう暫くは戻っては来ないだろう。忍び足で自室へ行き、勝手に俺の雑誌を読みながらわいわいと話している兄達の頭を叩く。結構いい音で鳴った。きっと中身は落花生みたいに空間でもあるんだろう。
「いった!尊敬する兄ちゃん達に何すんだケンタ!」
「人の部屋に勝手に入っておいて何言ってんだよ!―――うわっ」
次男の正治が声を荒らげながら俺を床に押さえつけた。
「兄貴たちを叩いてきたってことはそんぐらいの仕返しもされる覚悟があったてゆうことだよなぁ」
「雅紀にーちゃん!?」
「兄ちゃんやっちまえ!」
がははと正治の笑い声が部屋に響く中、のっそりと立ち上がる長男の雅紀が半纏の紐に手を伸ばした。
「はー!極楽極楽!」
「おいケンタ俺のぶんも持ってこい!さもないとその袴と着物剥ぎ取って褌一枚と帽子だけで店前の雪片付けさせるかんな!」
兄たちに着たばかりの半纏を取られてしまい、がっかりした気持ちで正治に言われた通り半纏を探しにまたもや忍び足で歩いてゆく。
「うぅ、寒う」
さっきの洋室の前まで行くと、姉の椿がまだ鳥討と楽しそうに話している声が聞こえた。兄たちの悪業を告げ口をしてやろうかとも思ったが結局は三人仲良く褌一枚で雪かきだろう。そう想像するとゾッとして、少し小走りになる。焦りのせいか若干目の前が歪んで見える。
服が閉まってある箪笥がある部屋まであと残り五十メートルくらい?まで来た頃。後ろから物音がし、急いで近くの部屋に隠れた。そこは浴室で、さっき溜まったばかりなのか湯船に乗った蓋の間から湯気が出てきていた。足音は、こっちへ向かってくる。「うわっ!失敗した!」そう思って心は今すぐにでも逃げるべきだと問いかけてくる。だが寒さでおかしくでもなったのだろうか、暖かそうだなとどうでもいい事ばかりが内心頭に浮かんでいた。目の前が只々揺れている。
「うわっ、すんません。誰か入っとると思わんくて―――い、いわさき!?」
「鳥討…お前さっきまでねーちゃんと話してなかったか?」
「そうなんやけど、疲れたやろうから風呂はいつまできんさい言われて」
「…そうか、驚かせてすまなかったな」
そう聞いた瞬間身体の力がドバっと抜けた。そして入ってきたのが姉でなくて良かったと心底思う。俺はそのまま引き戸に手をかけようとした。いくら浴室だと言っても冬は冬。足元にできた湯溜まりがすぐに冷水になっていくのを感じる。尋常ではない寒さ、服を着ていてこれなのだ。着物を少しはだけさせながら立っている鳥討の方が辛いに決まっている。鳥討にも申し訳ない。
「いや、その前になんでお前がおるんや。お前だってお姉さんに掃除やれ言われとったし」
一目散にも出ていきたい気持ちがたったの一言によってさらに強くなる。
「風呂掃除しようと思ったからだ。とにかく出るよお前も寒いだろ…」
下手くそな嘘でとりあえずその場を収めようとした。せっかく気を使ってやってるのになんてことも思ったが、気を使いあっているのは相手もおなじだと考えを改めてみた。きっとそっちの方が考えなくて済むから―――とにかく、俺は引き戸をゆっくりと引いた。
「ま、待ってくれ!」
後ろからまた俺を引き止める声がした。今度の言葉にはさすがにイラつきを隠すことも出来ない。「もういいだろう」と、素っ気ない言葉で返してしまった。
「岩崎も風呂入ろう!」
―――は?
「あ、違っ―――別にそういう好意とかそんな気持ちじゃなくて…べ、別にいいだろ!?寮でも一緒に入ることもあるし―――。とにかく、お前も寒そうだし、今話したいことあるから…だめか?」
―――。
「だ…だめだよな!すまん忘れてくれ、ただの冗談にしては流石に気色悪かったな!ははは…何言ってんだ俺―――」
―――。
広い訳でもなくかと言って狭い訳でもない湯船が妙に体に適合する。だがそんなことも忘れるくらいのことが今起こっているのだ。何となく実感する。
寮の風呂はそんなことなんか意識なんてしたこと無かった。多分うるさい先輩方の話を聞きすぎてそんなことを思う暇なんてものがなかったのだろう。それに隣の鳥討の顔がお湯が熱いせいか、はたまた恥ずかしがっているのか、頬と耳が赤く火照っている。そんな顔をされてはこちらも反応に困るだろう。
やっと鳥討の口が開かれる、
「岩崎は優しいのう…」
「っ…どこがだよ」
「ええと、俺のこうゆうわがままを真剣に受け止めてくれたりとかじゃろうか」
急な方言を使った慣れない言葉に違和感を覚えた。
「お前、ねーちゃんに酒でも飲まされたのか?」
「われを好きなわしゃぁ嫌か?」
冗談なのか、本気なのかいたずらに笑いながら俺を見る君の顔がどうにも好きだった。
長距離を走ったように息切れを起こしそうだ
心臓が痛く苦しい。高鳴りが隠せない。
「映画を見に行かないか!」
腕を掴んでそんな身も蓋もないことを言う。その日はただうざったいくらい暑い中で、ジメジメと限界に近づいた心に終止符を打とうとしただけなのだ。
「出会いは偶然、別れは必然」という言葉があるように人間関係というのは案外すぐに崩れるものである。
少なくとも俺はそう定義しているということにしておこう。けれど出会う時や別れる時なんて誰でもわかる訳でもないのもまた事実なもので、あいつとの出会いもあまりに偶然的で、けれどもそうなるのも納得がいくようで、なるべく会いたくなるような、できるなら会いたくなかったような奴だった。
ここまで言うのも理由がある。
手を引かれ崖に立って、好きだと言われた。
「海で死ねば綺麗な星が海の中から見放題なのよ?」
他の言語を話されたように理解できない。無を知った。意味をなさない言葉。夜の風が痛いほど頬をかすめたあの日。
共に落ちる中、繋がれた幼なじみの手を離す。
途端の強い衝撃。最後に見た女の顔、あいつの表情はこれ以上ないほど笑ってしまうほどにに無だった。
そいつの顔はあのキチガイ女に似ていた。あいつの顔を見てはまた、あの女を思い出してしまって、また額の傷口を痛めるのだ。目の形。ホクロの位置。笑った姿。思い出す。全てが嫌いだった訳でもなかったのに。
ただ特別愛していた訳でもない女に心中しようと言われ、殺されそうになるのが気持ち悪かった。けれどもしあの日押しのけてしまったとしても関係性は終わってしまうのだろう。きっと彼女は自殺する。どっちにしろ俺はきっと悪者になってしまう。それなら俺は彼女と幼なじみであったままのほうがきっと幸せだった。
棺の女の酷く膨らんだ顔を覗いて、女の兄から殴られた頬を頭から額の傷の順番に撫で下ろした。私の家族と相手の両親は理解こそ示してくれたが隣人間の仲に傷が付いてしまったし、けれどただ答えが欲しかった。どうして彼女の愛に上手く答えられなかったのだろう。なぜこの気持ちを言葉にできないのだろう。
下ろした手で線香に火を灯す。得られたのは答えでなく結局は痛みだけだった。
そんな痛みを思い出して、あいつと距離をとる。
そんな日々。
名 岩崎 健太郎
大正十四年 五月五日 火曜日
東京都中央区銀座で時計屋を営む家庭にて四番目の子供として生まれる。
家族構成は 父、母、姉、兄、兄、弟、妹である。
語学に優れており、七ヶ月半で話し始め、十歳にして漢語と朝鮮語を家庭教師から習い、日常会話を話せるようになる。そして、英語も共に勉強し始める。その他の教科も人並み以上にこなし、語学の他には特に図画が優れていた。
全ての大人たちが彼を褒めたたえる中、長男が通っている七年制高校への進学が望まれており、本人自身も進学を望んでいたようで。猛勉強の末
見事合格。
今の周りから見た自分のことを言えばきっとこんな感じなのだろう。
「鬼才」
けれどこんなことはただの過大評価に過ぎず、勉強し始めた理由なんかは実際はもっとしょうもない。漢語や朝鮮語なんかは私にとって勉強したとしてもいらないものだった。けれど私の場合は環境のせいで勉強をする羽目になったのだ。店の支払い場に立てば金持ちの漢民族や朝鮮民族が私の方を見ては無駄にでかい言葉で怒鳴ってきたり、バカやノロマとか言ってくるのだ。しかもバカにニヤニヤしながら自分の国の言語で話してきやがる。言葉が分からないからと言ってなんでも言っていい訳でもないだろう。決心したのは四つの頃。親が何を言ってるのか分からずオドオドしている様子を見ては笑っているやつらが腹立たしかった。それを見返すために、ただそれだけのことだけで勉強しただけということなのだ。家の歴史書や漢文、朝鮮語の本を読み漁る日々だった。英語も同じ理由。そうした末そういうことを言われる度に同じ言語で返してやって、相手の恥ずかしそうな顔を見ては内心喜んだ。そうだ、これはただの自己満足なのだ。国際的なことをしたい訳でもなく、実家の手伝いをしたい訳でもない。
ただ、勘違いして欲しくないのは客の中には優しい人達もいて、直接教えてもらうこともできたということだ。英国人には「Please tell me how to pronounce it」漢民族には「请告诉我怎么发音」なんて言ってしまえば教えて貰えることが出来て、それを聞いた人達は自国の言葉を理解してもらえるというのはやはり嬉しいらしく、高い時計を買ってくれることもあったし、お小遣いやお菓子をくれることもあった。それらを貰った私はさらに頑張ろうと思えた。
けれど勉強することは元から嫌いだ。両親から出された課題と学校の課題をしようとした途端背負っていた弟は泣き出すし、妹が引っ付いてくる。家に侍女はいたものの一人しかおらず、ただでかいだけの家を掃除するだけで手一杯なのだろう。子供のことまではあまり手が回っていなかった。姉さんは隣町に住んでいるし、兄さん達は学校で、両親は仕事。家にいるのは小学校から早く帰った私だけ。そうとなれば子守りをするのは私だけになるだろう。
子供が子供を子守りする。今の時代、そこらじゅうで見かける光景だ。特別なことでもなんでもない。野暮なことを言うが私は子守りの時間も嫌いだった。嫌いなものを足し合わせても結局良くなんてならない。ネズミが虫の死骸を食べていても、虫がネズミの死骸を食べていても気持ち悪さしか産まないだろうし。
そもそも七年制高校なんか行きたくなかった。両親はさぞ私が嬉々として志望したかのように話すが志願は無理やり書かされたものだった。涙を流して文字が滲んではまた書き直された。「泣くなんて男として恥ずかしくないのか」「兄を見習え」散々罵倒された。そのせいで出願が通ってしまったのが一番悔しかった。そうしてズルズルと荒い土の上で引っ張られるように痛く、苦しく、見苦しい時間がすぎていき、私はついに「七年制高校生」と言われるものになってしまったのだ。
両親のことは心から嫌いというわけでもなかった。尊敬だってしていたし、憧れだった。こうして私を七年制高校へ行くように勉強させていたのも、将来的な理由だろう。けれど私には夢があった。子供らしくも純粋な夢。
本当は航空隊になって、空を飛び回りたかった。空は何よりも自由だ。何も考えなくていいはずだ。お国のためになんかとか言う立派な理由ではなく、ただ自分の為だけにそんなことを思っていた。
店の前を掃除していると度々航空隊の練習機が太陽の光に照らされながらうちの店の上を飛び回る姿を見た。とても綺麗で、とてもかっこよかった。私もあんな風になれたらいいなという思いだった。
けれど帝国大学への進学が約束されたこの学校だ。両親的にもそんなことはさせたくないだろう。ちゃんとした飛行機の知識を貯えるために、予科練生にもなりたかったが今はまだ年齢的にも無理がある。絶対になってやるとは思うが、それが実現されるとすれば果たしていつなのだろうか。いや、もう無理かもしれん。そんなことを言ってしまえば、また罵倒される。諦めるしかないだろう。私はきっとなりたい自分にも何者にもなれない。航空隊以外で働く姿が想像できない。
そして高校へ行く丁度一ヶ月前、突然隣の家の幼なじみが
「今夜出かけましょう。話したいことがあるの」
そう言ってきた。女の名前は佐竹 ちづという。
見た目はあどけない少女であり、肩に下がった長いお下げと病弱な肌が印象的だった。顔もよく、頭も割り方良い方だったが、そんなものを台無しにしてしまうほどに彼女は頭がおかしかった。
私の後をつけてきては偶然出会ったかのように話しかけ、家のゴミを漁り、酷い時は家の中に無断で入って私の物をくすねることなどがあった。まさにキチガイだ。嫌な予感がし、最初は断ったが無理やり腕を引かれ、崖の縁に立たされ心中しようと言われた。。こんな女と心中なんて嫌に決まってる。キチガイとなんか―――
そして今、
目を合わせ ゆっくり息を吸い 息を飲む
強い風に押されるように女の背について行く。もう逃げられないことは分かっていた。
ため息をついた
何にもなれないのなら死んでしまった方がマシなのではないか。そんな考えが一瞬頭をよぎった。ああ、俺もキチガイになっている。死にたいなんて思ってしまうなんて。
妙に悲しい気持ちで喉が詰まってしまう。
女は言う「あなたがいないと私、きっと耐えられる気がしないの」
それもそうだろう。このキチガイの生きがいは何故か俺になっているのだから。七年制高校へ行くことも、寮生の高校だと言うこともこいつには一言も言っていないのに、そんな所まで把握しているなんて逆に尊敬する。私にもそれくらい熱中するものが欲しかった。羨ましいものだな。
死のう
そう思った後の行動は早かった。
きっと生きてる意味なんてない。夢なんてかないっこない
無理やり腕を開き抱き合い
触りたくもない手を取り合って
一秒にも満たない口付けをして
愛していたふりをして
跳んで、「落ちる」
「―落ちる」
「――落ちる」
「―――オチル」
「――――おちる」
「―――――墜ちる?」
「このまま?」
「死ぬのか?」
「本当に航空隊になれないまま?」
「夢を叶えられないまま?」
「そりゃないだろう神様」
急に苛ついた。腹が立った。自己中心的な自分に。
夢ばっかりで、行動なんてしないただの馬鹿野郎。
気付いた時にはそいつの手を放していた。
海でも地上でもない場所で
そして女の顔を見て、笑って言ってやった。
「星はもっと近い方で見たほうが綺麗だろ?」
清々しい気分で空を見上げる
ガッ
途端にそんな音がした。
それは俺の額が崖から飛び出た岩に叩きつけられる音だった。
途端に海に落ちる
――――――――――――――――――――――
何でもないように目覚めゆっくりと体を起こす。身体の痛みはなく、ただ腕や足が麻痺したように痺れている。
「ケンタッ!」
略された名前を呼ばれ、腕が伸びてくる
「―――ねーちゃん痛い」
馬鹿みたいな力の腕が腰に巻き付いて、痺れが一気に全身に広がった。
姉の椿は結婚して隣町に住んでおり、会うのは久方ぶりではあったが、そこまで懐かしさを感じることは無かった。何しろ隣町であったとしても、姉の噂は何故か流れてくるのだから。こそ泥を捕まえたり、迷子を送り届けたりなど、警察の仕事が全て取られるくらいの仕事ぶりだそうだ。実際はただの主婦なのだが。姉は昔から正義感だけは異常に強かった。いや、それよりも強いものがあった。
ミシミシと骨が鳴る音が聞こえる。
この馬鹿力だ。
ほぼ無理やり姉を剥がした後、力が抜けたように横たわった。本当ならば今日は寮へ荷物を運ぶ日だったのだが、怪我があるということもあり病院のベットから動けずにいた。
あの日からだいたい三日ぐらいたっただろうか。三日間といえどもたくさんのことがあった。血を垂らしながら浅瀬に浮かぶ姿を近くにいた漁師に発見され、すぐさま病院へ運ばれ、手術をし、額を八針縫う羽目になった。
身体には幸い目立った損傷はなく、打撲とアザが残る程度だった。
女は死んだ。
目覚めてすぐ、そんなことを聞いた。昨日やっと見つかって、今日は葬式らしい。嫌だとは思うが来てやってくれと女の両親に言われ、痛めた身体を引きずりながら病院を抜け出して葬式へ行く。
参列に並んで、ある男と顔を合わせる
すぐさま拳が飛んできた。
左頬に直撃する。
女の兄だった。
どうも女は遺書を残していたそうで
しかし、彼は女が今までやったことを知らないらしい。
遺書に自分のやったことぐらい書いて欲しいものだよ。
両親もすごいもんだよ、息子に真実を話さないとか。
そんなことが優しさに繋がると思ってることとか。
―――まさに無駄だな。
「ほんと、誰の得になるのだか」
殴られた頬をそっと撫でる。
無心で棺の中を覗いて、無心で線香に火を灯す。揺れる煙がやけに鼻の奥を突いてくるのを感じた。けれどその白い煙の形はまるで女の揺れるおさげのようで、
「ケンちゃん!」
こちらを振り向いて名前を呼んでくる。
「―――はぁ」
きっと疲れてる。俺はこの女のことが嫌いだったはずだ。清々しい気分で突き放したのに。
なのに、どうして―――
また顔をなでおろして、傷に触れて、誰にも聞こえないぐらいの声で、嗚咽混じりで答える。
「―――ちづ」
そう彼女の名を呼んだ。
いつもはどんなに小さくても応えてくれる返事はどれだけ待っても帰って来てはくれなかった。
けれど煙になって振り返った彼女の顔は笑ってしまうほどに綺麗だった。
一粒、一粒と握った拳の上に雫が落ちてゆく。本当にこんなことは誰の得にもならない。言葉にできない渦巻く不安定感。
言い訳を沢山した。そうしてもちづは帰ってこない。そんなことは分かっていた。
「―――幼なじみのままが良かった」
きっとそれだけは本心だったと思う。
彼女がいつからこうなったのか分からなかった。彼女への言葉。言葉。見つからない。そんな都合のいい言葉。意味をなさない言葉。
「俺は彼女が好きであり、嫌いでもあったのか」
また存在する言葉で誤魔化した。
――――――――――――――――――――――
四月の風に運ばれ、寮に足を運ぶ。
この寮は五人部屋で、今まで暮らしてきた家と比べものにならないほどに窮屈だった。
しかも女の兄がいた。なんでこいつがいる空間で川の字になってまで寝なければいけないのか。
そんなことを思っては、後ろから睨まれていることを背中で感じた。
冷や汗が止まらない。
体調も悪い。
あれから家族以外の女がめっきりだめになってしまった。話せない。男であったとしても、相手の顔を見ることが出来ない。見ようとしても黒い霧のようなものが顔にかかっている。きっと怖いんだ。きっとまた被害者ヅラしてしまうから。どっちが悪いのか見分けがつかなくなってしまうから。
下を向いて生きていこう。そうすれば何にもならないはず。
同じ学年のやつの顔も、先輩方の顔も見れない。見られない。
入学式も終わり、ただ俯いて本を読む。
伝えられた言葉なんか適当にあしらって、そしてまた下を向く。
春が過ぎ、夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬が過ぎ、また春が来る。そんなことをずっと繰り返すだけ。簡単な事だ。
簡単な事。
――――――――――――――――――――――
この前から俺を見る目線が増えた気がする。
しかも嫌いとかいった感じでなく、単なる好機の目線。
誰かはなんとなく予想がつく。同じ部屋の鳥射だ。寮内でも同じような目線で見られているからな。きっと額の傷でも気になっているのだろう。このクソみたいな傷跡が。
鳥射。以前聞いたことある名前だ。なかなか見ない名前だから覚えてる。確か家の時計の部品を売っているところの親会社だ。西日本の会社だがこちら側に軍事用品もそこそこ生産してたはず。そんなでかい会社の息子がこんなところに通っているとは。
「―――仲良くなれば時計屋を大きくして貰えて、父さん達にも褒めてもらえて、予科練の試験を受けさせてもらえる?」
そんなわけが無い。駄目だ。駄目なことを思いついてしまう。
利用したくない。また引きずり込んでしまう。身勝手な行動に。
耐える。耐えろ。耐えてくれ。
無理に抑えて自分に問いかける。
クズにはなりたくないだろう?
もう既にクズになっているのはわかっていたが、まだ自分は大丈夫なはずだと心が受け付けないのだ。
そうやって耐えている俺を知ってか知らずか、こいつは何回も何回も何回も話しかけてくる。今日の授業のこととか簡単な会話だが、一言であったとしてもその言葉がずっと心に刺さってくる。広島訛りの標準語がゆっくりと、ジリジリと。
俺はその度適当な言葉で返す
そうすることで、一日が過ぎ、二日が過ぎ、三日が過ぎ、一週間が過ぎ、一ヶ月が過ぎ、半年が過ぎ、一年が過ぎてくれる。
それは今までの中で一番遅い一年だった。新しい環境だったからという理由もあっただろうが、心はずっと窮屈で、何かを考えることもままならず。正常なフリ。そんなままでいることだけが今は幸せ?だった。
主人公というものが羨ましい。なぜならその人種は報われることがほとんどだからだ。何をしても上手くいく。辛かったのは過去だけで、生きているだけで仲間に恵まれ、最適な終盤を迎えられるのだから。
そう思いながら手元に閉じられた走れメロスの表紙を撫でる。
――――――――――――――――――――――
二年生になって、若干伸びた背を縮めて酷く混んだバスに二人で乗り込む。軽く息をついてもう一人が目視できる範囲にいることを確認し、手すりに捕まる。学校終わりの真昼間からこんなことをしていて自分ながら馬鹿だと思う。こんなことするぐらいなら勉強していた方がマシだ。ジリリリとセミの声が耳に酷く残る。
しばらく乗ったバスを降りた先には商店街が並んでおり、小さい頃に行ったことがある映画館でとりあえず目に止まった一番時間の近い映画のチケットを購入する。二階の席は客があまりおらず、言ってしまえばほぼ貸切状態だった。そいつは映画を見たことがないらしく、興奮してかあたりを何回も見回していた。
そんな子供のようなこいつを差し置いて俺は金の心配などせず。ただ今は話す内容を考えている。
心臓の鼓動が聞こえるぐらいの緊張の中で伝えた。
「映画を見に行こう」
結局俺はこいつを利用するしかなかった。ただ暑苦しい虫の声のせいにしたいくらいに腹立たしい。限界だった。部屋の机で本を読んでいると、こいつが急に本の話をしてきて、その本が元海軍兵士が執筆したものだからか、それから将来は兵になりたいなんてことを言い出した。そして俺の将来の夢も聞いてきたのだ。俺は何も答えられなかったが、その時から黒い霧はかなり濃くなって、顔の形も分からないほどになっていた。夢。俺はまた同じ道を歩くのか。そうも思ってちづの顔を思い出すと、泣きそうになったがそんな姿をこいつに見られたら変に思われそうで必死にこらえた。どれだけクズになれば気が済むのだろうか。けれどこいつが嬉しそうな声で
「ええの!?」
そう言ってくれたのがせめてもの救いだと思う。
いや逆だな。嬉しそうな声は結局俺を苦しめるんだ。
変に考え込んでいるといつの間にか映画は終盤に差し掛かっていた。相変わらず顔は見えないが主人公が好きな人に告白する場面だ。
「あ、これ恋愛映画だったのか」
不意にそんなことを口ずさんだ。
「ずっと好きだった」
「―――私も」
そんな無意味な言葉を口にしたあと男女はキスをした。幸せそうに、お互いの愛を確かめ合うように。
つまらない
男女の仲などただの妄想に過ぎないのだ。たとえそれが映画でなく現実であったとしても。
あまりのつまらなさに欠伸をした。
けれどこいつもそうとは思わないらしい。ふいに左の席を見ると気まずそうに指を弄っているんだから。
女みたいになよなよしい。俺の家なら殴られて無理やり男らしさを強制されるのが普通なのに。
羨ましいものだ。こいつはきっと今だけは何にも縛られず自由に生きられるんだろうから。さぞかし優しい親なんだろう。卒業したとしてもどうせ家業を継ぐから自由にさせているのか?きっと兵士になりたいなんて口先だけの戯言だ。俺のほうがなりたいに決まっている。
きっとこいつには傷すらついたこともないのだろう。ただの有利な人生。俺みたいに特別変でもなく、普通に大切にされた普通の人間。
普通の人間とはどのような顔なのだろう。―――傷すら付いていないこいつはどんな顔をしているのか。
そう考えてしまうとなんとなく気になってしょうがなくなって映画なんて頭に入ってこない。
またこいつの顔があるであろう方をちらっと覗く。
「―――」
頬があるであろう場所に手を伸ばし、絹のように滑らかな肌をそっと撫で下ろす。
「わっ!ど、どうした!?」
動揺したのか焦ったように鳥討は身を後ろへ引く。
「―――いや、何でも」
瞬く間に霧は広がり、ついに首元まで隠れてしまった。けれど、見えなくとも顔は存在しているようでなんとなく安心した。
帰る時、鳥討はずっと黙ったままで見るからに気まずそうだった。―――まあそうだよな。恋愛映画見た後にされたら普通驚くか。
「何してんだろ。俺」
帰ったあと布団の上で静かに目を閉じる。
次はどこに行こうかとただ悩んでいた。
だってそうしないと仲良くなれないから。
夢なんて叶いっこなくなる。
―――明日は顔見れたらいいな
そうは思うが、きっともうこいつの顔はもう俺には見られないとも、なんとなく思った。そんなことはとっくに分かってたし。
クズにはクズなりの夢があるのだ
わかって欲しいとは言わないし言えない
きっとこんなのも、ただの妄想に過ぎないんだ。お前は存在してくれていないんだろう?存在してしまうと都合が良すぎるんだ。
心のなかで言い訳をして、だれかのむせたような咳が部屋に響く中俺は死ぬように眠った。
――――――――――――――――――――――
学校を出てしばらく行くと西洋風の建物が並んだ一見するとここが日本であることを忘れるような場所がある。そこの喫茶店のコーヒーがまた格別なのだと千葉という同室の先輩が言っていた。
「ドイツ人が経営してんだ。味も悪くない。まあ俺の育ったフランスには負けるがな」自慢げに短い髪を揺らす帰国子女の千葉を適当にあしらい、そして俺はすぐさまそこへの行き方を書いたメモを貰い、鳥討を探した。
「―――お前、俺になんか変な気でも起こしとるんか?」
喫茶店に着くと開口一番こんなことを言われ変に腹が立った。そんなことでお前を誘うわけが無いだろう。俺の幻覚のくせにどうして都合よくならないんだ。
「ちげーよ、ただの友達としての好だ」
適当に思いついた言葉を少し笑いながら返す。友達なんかは本当に要らなかったが、ここにいる理由だけを作る為だけにこの偽りの関係を利用した。
「ともだち?」
鳥討はそんな言葉が不思議なのか、疑問形でぽつりとそんなことを言った。
「なあ、いわさ―――
「ゴチュウモンハオキマリデスカ?」
なにか喋ろうとした鳥討を遮って外国人のマスターがカタコトの日本語で話しかけてきた。
俺はそいつが言おうとした言葉なんかは気にもとめなかった。どうせ後で話そうとしてくるだろうし。
「コーヒーを一杯ください。あとこいつは―――」
「あいすくりいむを一つ」
マスターは軽い会釈をしてカウンターに入っていった。
「驚いた。ガキみたいなものを頼むんだな」
そう言って何気ない会話を振ってやる。鳥討はしばらく考えて、
「食べたこと無かったから食べてみたくて」
と確かにそう言った。どんなぼんぼんであってもさすがに食べたことが無いものもあるだろう。変に納得して、運ばれたコーヒーに牛乳と砂糖を入れてゆっくりとかき混ぜる。ひとくち含むだけでコーヒー特有の苦味が口いっぱいに広がった。足りない。もっとよこせと言わんばかりに牛乳のまろやかさも消えていく。
「岩崎は俺の事友達だなんて思ってないんだろ?」
時間が止まる。
なぜそう思ったのかは知らんが内心を読まれた気がして冷汗が止まらなくなった。
「なんでそう思った」
「変に思うかもしれんが、お前の目が父上と同じに見えて―――。本当はお前も俺なんかには興味なんてないんだろ?無関心なんだろ?」
―――こいつは何を言っている。興味?父上?同じ目?なんの事だ。
「無関心は俺にもお前にも毒になる。俺を利用したいと言うのならやめておけ。利益がない」
利益という言葉に体がピクっと反応する。いつもとは違うこいつの訛ってすらいない標準語が気持ち悪い。
今はまた適当な言葉を返すしか無かった。
「俺はそうは思わんがな」
果たして利益はあるという意味なのか、友達であるという意味なのか。どちらの意味で言った言葉なのか。それは俺にも分からなかった。
またなにか言おうとした鳥討の目の前にアイスクリームが運ばれる。
よく分からない状況に頭の整理が間に合わない。バレていた?でもバレてるってことは利用しようとしてもできない状態だということだ。
―――良かった。もう引きずり込めない。
けれど気まずいのは変わらず、気晴らしに中身が少し残ったカップを覗く。少し傾けると溶けきらなかった砂糖が底でキラキラと輝いている。あの夜のあの星のように。満天の星が広がっていく。
ふと目の前を見る。
目が合った。
死んだ目。光すら入ってこないほどの漆黒さ。目しか見えないのに、ずっとその目に吸い込まれる。黒い霧も広がっていく。こいつの口に運ばれていくアイスクリーム。ゆっくり、ゆっくりと溶けていく。見えなくても何となく想像できるあどけない表情、手だけで分かる病的な白い肌、そんなのまるで、まるで―――
「ちづ?」
「―――はあい」
黒く染まりきった鳥討。俺の目の前には不敵に微笑むちづの影がいた。
俺はなにかに気づいたようにちづに心の中で問いかける。
「きっと俺もお前と同類なんだろう。成り下がってしまったんだな。叶いっこない夢を永遠と追いかけてる」
「ええそうね」
昔のように嬉しそうには答えてはくれなかった。
「で、お前は俺にどうして欲しいんだ。この黒いやつお前のせいだろ?」
「違うわよ」
案外バッサリ切り捨てられて何も言えなくなる。
ちづは続ける。
「この黒いものもあなたが勝手に作ったものなのよ?言ってしまえばただの幻覚ね。だって私もあなたが作ったただの幻覚に過ぎないんだから」
そんなの知ってる。でもせめてもの救いが欲しい。
「死んだ君がずっと羨ましい俺はもう死んでしまいたいんだ。もう疲れた。夢だってもう叶わないし」
夢を叶えるために突き放した相手に堂々と死にたいなんてことを口走る。どうせ幻覚だ。何を言ってもこいつは傷つかない。
「何が現実なのかも俺には分からんよ。きっと鳥討も、ここも、全て俺の妄想に過ぎん。本当は俺は死んでいるんだろう。こんなのただの天罰だよ」
「あらよくゆうわね、そんな中で好きな人は出来たくせに」
まただ。また、よくわからない言葉。ほんとに昔からこいつは変な言葉しか話さん。本当に面倒臭い。このキチガイめ。
「あなたはただそっぽ向いてるだけなのよ。こんなもののせいにして」
ちづはゆっくりと黒い霧をかき分けた。小さな虫を払い除けるように。
俺の目の前には溶けてすくうことも出来ないアイスクリームが残った器と、小銭が置いてあるだけだった。
「鳥討―――?」
肝心の本人は居ない。
「ちがう、こいつはただの都合がいいだけの幻覚なんだ。存在するはずなんてない。お前なんか居なくても、俺は―――」
よく分からない気持ちでいると机の上に力強く握った拳から血がぽたぽたと落ちる。
「本当はわかってたんでしょ。全部」
「は?」
その言葉を聞いた瞬間。重いまぶたがパチリと音を立てて開ききる。
俺は小銭を店主に渡して、釣りすら貰わず、鳥討を走って追いかける。
こんな気持ち初めてだ。
いつしか見たメロスのように走って、走って、走って、息切れを起こしながら、無様に転んで、
はぁ、はぁ、
こんなに走ったのはいつぶりだろうか、肺が破れそうなほどの空気を吸い込んだ。だが、なぜか体は新鮮な空気を欲しがらない。吸った瞬間に倦怠感と吐き気が襲う。
目の前には一人、とぼとぼと歩くあいつの姿。
セミの鳴き声がうざったいほど耳についてくる。
こんな感情になるのはきっと夏のせいだ。息をするのも苦しい。ただ今だけは君のことを考えていたいのに。本当のことを知りたい。伝えたい。存在を確かめたい。
前を進む腕を緊張の中で力強く掴む、
そして告げる
「映画を見に行かないか!」
そこには勢いよく振り向いた、雨に濡れた黒曜石のような目が良く似合う顔立ちで、優美なあどけなさが印象的な愛おしさすら覚えるお前がいた。
お前は口を開く
「ほんとよく分からんやつだな―――お前は」
泣きそうな声で、泣きそうな目で、そうお前は笑顔で振り向いた。
あぁ、幻覚じゃなかったお前は存在していてくれたんだな。
鼓動が早くなる。ゆっくり。ゆっくりと、時間をかけて
俺はお前ともっと話したい。君を知りたい。
そして、つまらないし、お前を悲しませてしまうかもしれないけど、お前を利用してでも俺は夢を叶えたい。
でも、その代わり、絶対にお前を幸せにしてやる。
そう勝手に誓った
自分勝手がすぎる
自分の気持ちが分からなくなってゆくこんなの自分ですらない。
――――――――――――――――――――――
普通というものにはこいつは慣れていないらしい。こいつは箱入り息子でなかなか外には出られず、出るとしてもここに来る前は敷地内や小学校へ行くための決まった道だけしか出られなかったそうだ。遊び相手も兄弟としか許されなかったようで。俺もたしかに出られるところは制限はされていたがここまでではなかったと思う。
それほど親に溺愛されているからなのか?さすが大富豪だ。としか言いようがない。
「そんなくせに金はねえんだよな」
ぎこちなくアイスクリームを食べる鳥討を横目にそんなことをつぶやく。
最近は中国との戦争のせいなのか物価が高騰している。俺にとってはあまり困ることでは無いが、鳥討にとってはそうもいかないらしく、家からの仕送りすらまともにないようで、好きになったアイスクリームすら食べられないようだ。
「すまない。資本家の息子が金欠なんてなあ」
あまりに申し訳なさそうに笑いながら顔を俯かせるので、文句すら言う気にならなかった。
「別にいい。好きな物は好きなだけ食べたい気持ちも分かる」
俺はゆっくりと机に置かれたティーカップを混ぜる。
「いつか何かの形で返すから―――」
急な言葉だったがいまいち驚きもない。
「ああ、いつかな」
今すぐにでもそれを形にして欲しいとは内心思ったが、さすがに口にする勇気は俺にはなかった。
「お前は将来何になりたいんだ?」
しばらく沈黙が続く中そんな言葉が投げかけられる。
「俺は…」
また沈黙が続く。言っていい事なのか分からないまま。時間が過ぎる。ほら、夢は言うと叶わないなんて言葉もあるだろう?口は開くが肝心の言葉が出てこない。こいつは俺の家が時計屋だということを知ってる。きっとこんな無責任な夢なんて笑われてしまうだろう。そろそろこんなことに慣れてしまいたい。無責任なのは元からだし、鳥討はこんなことで笑う奴ではない。俺の口から出る一言一言がいちいち俺自身を悩ませる。
ふと前を見るとアイスクリームが溶けて染み込んだウエハースをまるで貴族かのように上品に食べる鳥討がいた。こちらのことをたまに気にして、ちらちらとこっちに目を合わせていた。
ウエハースを食べ終わった鳥討が痺れを切らして言う。
「こんな話去年もした気がする。お前も相変わらずだな」
そんな気を使った言葉をかけられる。
なんだか情けなく感じるし、呆気なくも感じる。
店主に小銭を渡してゆっくりと二人でバス停まで歩く。
その道中飛行場から飛び立ったばかりか着陸前なのか一機の飛行機が一直線に飛んでいた。
無意識のうちに目で追いかけた。
そんなの姿を見てか鳥討は聖母のようなほほ笑みで、
「どんな夢であっても、俺は素敵だと思うぞ」
そう言ってきた。
こいつは心でも読めるのだろうか。
「その言葉遣い気味が悪いな」
こんな言葉しか今は浮かばなかった。
言われた言葉が心外だったのか、ぺちぺちと叩いてくる鳥討を見ていると笑いが込み上げてきた。
先輩方から柔道の練習を受けているくせに、力も弱い。だからすぐ投げられるのだ。
本当に女々しいやつだ。
「本当に、可愛いやつだなお前は」
「っ!なんじゃお前!」
背中をバチンと叩かれた。微妙に痛い。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
年末の大掃除の手伝いをそそくさと終わらせて洋室の弱まった暖炉の火に薪をくべる。暖炉の火は喜んでいるようにぱちぱちと音を立てながら薪を食べている。そんな様子を眺めながら俺はよく冷えた霜焼けの手足をそっちへ向けた。
「ケンタ!よくもまあ友達が掃除を手伝ってくれてる中で一人だけ温まろうと思えるねぇ!」
振り返るとそこには鬼のような顔をした姉の姿があった。
「うげ、ねーちゃんかよ」
「ねーちゃんかよじゃないわよ!さっさと手伝いな。このボンクラ!」
バタバタと急ぎ足で出ていく姉を見送った後、馬鹿力女からの暴力は受けたくないので仕方なく重い腰をあげようとはしたが、その前にそばに置いてあった畳んだばかりの半纏を引き寄せようと寝ながら足を伸ばした。
「あの、お姉さん。この荷物はここでええですか?」
「あら、ありがとうね鳥討クン。いやあ、うちの弟たちとは大違いね。取り替えたいぐらいだわ―――」
隣の部屋から聞こえる急な鳥討の声に焦りながら、すぐさま立ち上がりもう少しで足が届きそうだった半纏を手で拾い、それを重ねて着る。聞き耳を立てると鳥討の「いえいえ」と謙遜する声が聞こえた。姉はまだまだ話し足りなさそうなのでもう暫くは戻っては来ないだろう。忍び足で自室へ行き、勝手に俺の雑誌を読みながらわいわいと話している兄達の頭を叩く。結構いい音で鳴った。きっと中身は落花生みたいに空間でもあるんだろう。
「いった!尊敬する兄ちゃん達に何すんだケンタ!」
「人の部屋に勝手に入っておいて何言ってんだよ!―――うわっ」
次男の正治が声を荒らげながら俺を床に押さえつけた。
「兄貴たちを叩いてきたってことはそんぐらいの仕返しもされる覚悟があったてゆうことだよなぁ」
「雅紀にーちゃん!?」
「兄ちゃんやっちまえ!」
がははと正治の笑い声が部屋に響く中、のっそりと立ち上がる長男の雅紀が半纏の紐に手を伸ばした。
「はー!極楽極楽!」
「おいケンタ俺のぶんも持ってこい!さもないとその袴と着物剥ぎ取って褌一枚と帽子だけで店前の雪片付けさせるかんな!」
兄たちに着たばかりの半纏を取られてしまい、がっかりした気持ちで正治に言われた通り半纏を探しにまたもや忍び足で歩いてゆく。
「うぅ、寒う」
さっきの洋室の前まで行くと、姉の椿がまだ鳥討と楽しそうに話している声が聞こえた。兄たちの悪業を告げ口をしてやろうかとも思ったが結局は三人仲良く褌一枚で雪かきだろう。そう想像するとゾッとして、少し小走りになる。焦りのせいか若干目の前が歪んで見える。
服が閉まってある箪笥がある部屋まであと残り五十メートルくらい?まで来た頃。後ろから物音がし、急いで近くの部屋に隠れた。そこは浴室で、さっき溜まったばかりなのか湯船に乗った蓋の間から湯気が出てきていた。足音は、こっちへ向かってくる。「うわっ!失敗した!」そう思って心は今すぐにでも逃げるべきだと問いかけてくる。だが寒さでおかしくでもなったのだろうか、暖かそうだなとどうでもいい事ばかりが内心頭に浮かんでいた。目の前が只々揺れている。
「うわっ、すんません。誰か入っとると思わんくて―――い、いわさき!?」
「鳥討…お前さっきまでねーちゃんと話してなかったか?」
「そうなんやけど、疲れたやろうから風呂はいつまできんさい言われて」
「…そうか、驚かせてすまなかったな」
そう聞いた瞬間身体の力がドバっと抜けた。そして入ってきたのが姉でなくて良かったと心底思う。俺はそのまま引き戸に手をかけようとした。いくら浴室だと言っても冬は冬。足元にできた湯溜まりがすぐに冷水になっていくのを感じる。尋常ではない寒さ、服を着ていてこれなのだ。着物を少しはだけさせながら立っている鳥討の方が辛いに決まっている。鳥討にも申し訳ない。
「いや、その前になんでお前がおるんや。お前だってお姉さんに掃除やれ言われとったし」
一目散にも出ていきたい気持ちがたったの一言によってさらに強くなる。
「風呂掃除しようと思ったからだ。とにかく出るよお前も寒いだろ…」
下手くそな嘘でとりあえずその場を収めようとした。せっかく気を使ってやってるのになんてことも思ったが、気を使いあっているのは相手もおなじだと考えを改めてみた。きっとそっちの方が考えなくて済むから―――とにかく、俺は引き戸をゆっくりと引いた。
「ま、待ってくれ!」
後ろからまた俺を引き止める声がした。今度の言葉にはさすがにイラつきを隠すことも出来ない。「もういいだろう」と、素っ気ない言葉で返してしまった。
「岩崎も風呂入ろう!」
―――は?
「あ、違っ―――別にそういう好意とかそんな気持ちじゃなくて…べ、別にいいだろ!?寮でも一緒に入ることもあるし―――。とにかく、お前も寒そうだし、今話したいことあるから…だめか?」
―――。
「だ…だめだよな!すまん忘れてくれ、ただの冗談にしては流石に気色悪かったな!ははは…何言ってんだ俺―――」
―――。
広い訳でもなくかと言って狭い訳でもない湯船が妙に体に適合する。だがそんなことも忘れるくらいのことが今起こっているのだ。何となく実感する。
寮の風呂はそんなことなんか意識なんてしたこと無かった。多分うるさい先輩方の話を聞きすぎてそんなことを思う暇なんてものがなかったのだろう。それに隣の鳥討の顔がお湯が熱いせいか、はたまた恥ずかしがっているのか、頬と耳が赤く火照っている。そんな顔をされてはこちらも反応に困るだろう。
やっと鳥討の口が開かれる、
「岩崎は優しいのう…」
「っ…どこがだよ」
「ええと、俺のこうゆうわがままを真剣に受け止めてくれたりとかじゃろうか」
急な方言を使った慣れない言葉に違和感を覚えた。
「お前、ねーちゃんに酒でも飲まされたのか?」
↓広島弁でいうと…
訛った言葉で好意を伝えてくる。
「われを好きなわしゃぁ嫌か?」
冗談なんか、本気なんかいたずらに笑いもってわしを見る君の顔がどうにも好きじゃったんじゃ。
長距離を駆けったように息切れを起こしそうだ
心臓が痛ぉ苦しぃんじゃ。高鳴りが隠せなぃんじゃ。
「映画を見に行かんか!」
腕を掴んでそがぁな身も蓋もないことをゆう。その日はただうざったなんぼい暑い中で、ジメジメと限界に近づいた心に終止符を打とうとしただけなんじゃ。
「出会やぁ偶然、別りゃぁ必然」っちゅう言葉があるように人間関係っちゅうなぁ案外すぐに崩れるもんじゃ。
少のぉてもわしゃぁそう定義しとるっちゅうことにしとこう。が出会う時や別れる時なんて誰でもわかる訳でもないのもまた事実なもんで、あんなぁとの出会いもあまりに偶然的で、んじゃがそうなるんも納得がいくようで、なるべく会いとぉなるような、できるなら会いとぉなかったような奴じゃったんじゃ。
ここまでゆうのも理由があるんじゃ。
手を引かれ崖に立って、好きじゃゆわれた。
「海で死ねば綺麗な星が海の中から見放題なんよ?」
他の言語を話されたように理解でけん。無を知ったんじゃ。意味をなさん言葉。夜の風が痛いほど頬をかすめたあの日。
共に落ちる中、繋がれた幼なじみの手を離す。
途端の強い衝撃。最後に見た女の顔、あんなぁの表情はこれ以上ないほど笑ってしまうほどにに無じゃったんじゃ。
そんなぁの顔はあのキチガイ女に似とったんじゃ。あんなぁの顔を見ちゃぁほいでからに、あの女を思い出してしもぉて、また額の傷口を痛めるんじゃ。目の形。ホクロの位置。笑った姿。思い出す。全てが嫌いじゃった訳でもなかったのに。
ただ特別愛しょぉった訳でもない女に心中しようとゆわれ、殺されそうになるんが気持ち悪かったんじゃ。んじゃがしあの日押しのけてしもぉたとしても関係性は終わってしまうんじゃろう。きっとカノジョは自殺する。どっちにしろわしゃぁきっと悪者になってしまう。それならわしゃぁカノジョと幼なじみじゃったままのほうがきっと幸せじゃったんじゃ。
棺の女の酷く膨らんだ顔を覗いて、女の兄から殴られた頬を頭から額の傷の順番に撫で下ろしたんじゃ。わしの家族と相手の両親は理解こそ示してくれたが隣人間の仲に傷が付いてしもぉたし、がただ答えが欲しかったんじゃ。どうしてカノジョの愛にええがぃに答えられんかったんじゃろう。なんでこの気持ちを言葉にでけんのんじゃろう。
下ろした手で線香に火を灯す。得られたなぁ答えでなく結局は痛みだけじゃったんじゃ。
そがぁな痛みを思い出して、あんなぁと距離をとる。
そがぁな日々。
名 岩崎 健太郎
大正十四年 五月五日 火曜日
東京都中央区銀座で時計屋を営む家庭にて四番目のガキとして生まれる。
家族構成は おとん、おかん、姉、兄、兄、弟、妹じゃ。
語学に優れとり、七ヶ月半で話し始め、十歳にして漢語と朝鮮語を家庭教師から習い、日常会話を話せるようになる。ほいで、英語も共に勉強しだす。その他の教科も人並み以上にこなし、語学の他にゃぁ特に図画が優れとったんじゃ。
全ての大ひとらがあんなぁを褒めたたえる中、長男が通っとる七年制高校への進学が望まれとり、本人自身も進学を望んどったようで。猛勉強の末
見事合格。
今の周りから見た自分のことをゆやぁきっとこがぁな感じなんじゃろう。
「鬼才」
がこがぁなこたぁたんじゃの過大評価に過ぎず、勉強し始めた理由なんかは実際はもっとしょうもなぃんじゃ。漢語や朝鮮語なんかはわしにとって勉強したとしてもいらんもんじゃったんじゃ。がわしの場合は環境のせいで勉強をする羽目になったんじゃ。店の支払い場に立てば金持ちの漢民族や朝鮮民族がわしの方を見ちゃぁ無駄にでかい言葉で怒鳴ってきたり、バカやノロマとか言ぅてくるんじゃ。しかもバカにニヤニヤしもって自分の国の言語で話してきやがる。言葉が分からんからゆってなんでも言ぅてええ訳でもなかろう。決心したなぁ四つの頃。親が何を言ぅとるんか分からずオドオドしとる様子を見ちゃぁ笑っとるやつらが腹立たしかったんじゃ。それを見返すために、ただそれだけのことばっかしで勉強しただけっちゅうことなんじゃ。家の歴史書や漢文、朝鮮語の本を読み漁る日々じゃったんじゃ。英語も同じ理由。そがぁな末そがぁなことをゆわれる度に同じ言語で返しちゃって、相手の恥ずかしそうな顔を見ちゃぁ内心喜んだんじゃ。そうじゃ、こりゃぁたんじゃの自己満足なんじゃ。国際的なことをしたい訳でものぉて、実家のテゴをしたい訳でもなぃんじゃ。
じゃが、勘違いして欲しゅうないなぁ客の中にゃぁ優しい人達もいて、直接教えてもらうこともできたっちゅうことじゃ。英国人にゃぁ「Please tell me how to pronounce it」漢民族にゃぁ「请告诉我怎么发音」じゃことの言ぅてしまやぁ教えて貰えることが出来て、それを聞いた人達は自国の言葉を理解してもらえるっちゅうなぁやっぱし嬉しいらしゅぅて、高い時計を買(こ)ぉてくれることもあったし、お小遣いやお菓子をくれることもあったんじゃ。それらを貰ったわしゃぁさらに頑張ろうゆぅて思えた。
が勉強するこたぁ元から嫌いじゃ。両親から出された課題と学校の課題をしようとした途端背負っとった弟は泣き出すし、妹が引っ付いてくる。家に侍女はいたもんの一人しかおらず、ただでかいだけの家を掃除するばっかしで手一杯なんじゃろう。ガキのことまじゃぁあまり手が回っていなかったんじゃ。姉さんは隣町に住んどるし、兄さん達は学校で、両親は仕事。家にいるんは小学校から早(はよ)ぉいんじゃわしだけ。そうとなりゃぁ子守りをするんはわしばっかしになるじゃろう。
ガキがガキを子守りする。今の時代、そこらじゅうで見かける光景じゃ。特別なことでもなんでもなぃんじゃ。野暮なことをゆうがわしゃぁ子守りの時間も嫌いじゃったんじゃ。嫌いなもんを足し合わせても結局ようなんてならん。ネズミが虫の死骸を食べょぅても、虫がネズミの死骸を食べょぅても気持ち悪さしか産まんじゃろうし。
そもそも七年制高校なんか行きとぉなかったんじゃ。両親はさぞわしが嬉々として志望したかんように話すが志願は無理やり書かされたもんじゃったんじゃ。涙を流して文字が滲んじゃぁまた書き直された。「泣くなんて男として恥ずかしゅうないんか」「兄を見習え」散々罵倒された。そのせいで出願が通ってしもぉたのが一番はぐいかったんじゃ。そうしてズルズルと荒い土の上で引っ張られるように痛ぉ、苦しゅぅて、見苦しい時間がすぎていき、わしゃぁついに「七年制高校生」ゆぅてゆわれるもんになってしもぉたんじゃ。
両親のこたぁぶち真面目に嫌いっちゅうわけでもなかったんじゃ。尊敬だってしょぉったし、憧れじゃったんじゃ。こうしてわしを七年制高校へ行くように勉強させとったのも、将来的な理由じゃろう。がわしにゃぁ夢があったんじゃ。ガキらしゅうも純粋な夢。
ホンマは航空隊になって、空を飛び回りたかったんじゃ。空は何よりも自由じゃ。何も考えのぉてえやぁずじゃ。お国のためになんかとかゆう立派な理由じゃぁのぉて、ただ自分の為ばっかしにそがぁなことを思うとったんじゃ。
店の前を掃除しとると度々航空隊の練習機が太陽の光に照らされながらうちの店の上を飛び回る姿を見た。ぶち綺麗で、ぶちかっこえかったんじゃ。わしもあがぁな風になれたらええなっちゅう思いじゃったんじゃ。
が帝国大学への進学が約束されたこの学校じゃ。両親的にもそがぁなこたぁさせとぉなかろう。ちゃんとした飛行機の知識を貯えるために、予科練生にもなりたかったが今はまだ年齢的にも無理があるんじゃ。絶対になっちゃるたぁ思うが、それが実現されるとすりゃぁ果たしていつなんじゃろうか。いや、もう無理かもしれん。そがぁなことを言ぅてしまやぁ、また罵倒される。諦めるしかんじゃろう。わしゃぁきっとなりたい自分にも何者にもなれん。航空隊以外で働く姿が想像でけん。
ほいで高校へ行く丁度一ヶ月前、突然隣の家の幼なじみが
「今夜出かけましょう。話したいことがあるん」
そう言ぅてきた。女の名前は佐竹 ちづっちゅうことじゃ。
見た目はあどけん少女じゃし、肩に下がった長ゆお下げと病弱な肌が印象的じゃったんじゃ。顔もよう、頭も割り方ええ方じゃったが、そがぁなもんを台無しにしてしまうほどにカノジョは頭がおかしかったんじゃ。
わしの後をつけてきちゃぁ偶然出おぉたかんように話しかけ、家のゴミを漁り、酷い時は家の中に無断で入ってわしの物をくすねることやらがあったんじゃ。まさにキチガイじゃ。嫌な予感がし、最初は断ったが無理やり腕を引かれ、崖の縁に立たされ心中しようとゆわれた。。こがぁな女と心中なんて嫌に決まっとる。キチガイとなんか―――
ほいで今、
目を合わせ ぼちぼち息を吸い 息を飲む
強い風に押されるように女の背について行く。もう逃げらりゃぁせんこたぁ分かっとったんじゃ。
ため息をついた
何にもなれんのんじゃったら死んでしもぉた方がマシなんじゃぁないか。そがぁな考えが一瞬頭をよぎったんじゃ。ああ、わしもキチガイになっとる。死にたいなんて思うてしまうなんて。
妙に悲しい気持ちで喉が詰まってしまう。
女はゆう「あんたがいないとわし、きっと耐えられる気がせんの」
それもほうじゃろう。このキチガイの生きがやぁなんでかわしになっとるんじゃけぇ。七年制高校へ行くことも、寮生の高校じゃゆうこともこんなぁにゃぁ一言も言ぅとらんのに、そがぁな所まで把握しとるなんて逆に尊敬する。わしにもそれくらい熱中するもんが欲しかったんじゃ。羨ましいもんじゃの。
死のう
そう思うた後の行動は早かったんじゃ。
きっと生きとる意味なんてなぃんじゃ。夢なんてかんっこない
無理やり腕を開き抱き合い
触りたくもない手を取りおぉて
一秒にも満たん口付けをして
愛しょぉったふりをして
跳んで、「落ちる」
「―落ちる」
「――落ちる」
「―――オチル」
「――――おちる」
「―――――墜ちる?」
「このまんま?」
「死ぬんか?」
「げに航空隊になれんまま?」
「夢を叶えらりゃぁせんまま?」
「そりゃなかろう神様」
急に苛ついた。腹が立ったんじゃ。自己中心的な自分に。
夢ばっかりで、行動なんてせんたんじゃの馬鹿野郎。
気付いた時にゃぁそんなぁの手を放しょぉったんじゃ。
海でも地上でもない場所で
ほいで女の顔を見て、笑って言ぅちゃったんじゃ。
「星はもっと近い方で見たほうが綺麗じゃろ?」
清々しい気分で空を見上げる
ガッ
途端にそがぁな音がしたんじゃ。
そりゃぁわしの額が崖から飛び出た岩に叩きつけられる音じゃったんじゃ。
途端に海に落ちる
――――――――――――――――――――――
何でもないように目覚めぼちぼちと体を起こす。身体の痛みゃぁのぉて、ただ腕や足が麻痺したように痺れとる。
「ケンタッ!」
略された名前を呼ばれ、腕が伸びてくる
「―――ねーちゃん痛い」
馬鹿みとぉな力の腕が腰に巻き付いて、痺れが一気に全身に広がったんじゃ。
姉の椿は結婚して隣町に住んでおり、会うなぁ久方ぶりじゃぁあったが、そこまで懐かしさを感じるこたぁ無かったんじゃ。何しろ隣町じゃったとしても、姉の噂はなんでか流れてくるんじゃけぇ。こそ泥を捕まえたり、迷子を送り届けたりやら、警察の仕事が全て取られるくらいの仕事ぶりだそうじゃ。実際はたんじゃの主婦なんじゃが。姉は昔から正義感ばっかしゃぁ異いっつも強かったんじゃ。いや、それよりも強いもんがあったんじゃ。
ミシミシと骨が鳴る音が聞こえる。
この馬鹿力じゃ。
ほぼ無理やり姉を剥がした後、力が抜けたように横たわったんじゃ。ほんまじゃったら今日は寮へ荷物を運ぶ日じゃったんじゃが、怪我があるっちゅうこともあり病院のベットから動けんとぉにおったんじゃ。
あの日からおおかた三日ぐらいたったんじゃろうか。三日間ゆえどもえっとのことがあったんじゃ。血を垂らしもって浅瀬に浮かぶ姿をネキにおった漁師に発見され、すぐさま病院へ運ばれ、手術をし、額を八針縫う羽目になったんじゃ。
身体にゃぁ幸い目立った損傷はのぉて、打撲とアザが残る程度じゃったんじゃ。
女は死んだんじゃ。
目覚めてすぐ、そがぁなことを聞いた。昨日やっと見つかって、今日は葬式らしぃんじゃ。イヤじゃたぁ思うが来ちゃってくれと女の両親にゆわれ、痛めた身体をひこずりもって病院を抜け出して葬式へ行く。
参列に並んで、ある男と顔を合わせる
すぐさま拳が飛んできた。
左頬に直撃する。
女の兄じゃったんじゃ。
どうも女は遺書を残しょぉったそうで
ほぃじゃが、あんなぁは女が今までやったことを知らんらしぃんじゃ。
遺書に自分のやったことぐらい書いて欲しいもんで。
両親もすごいもんよ、息子に真実を話さんとか。
そがぁなことが優しさに繋がるゆぅて思うとることとか。
―――まさに無駄じゃの。
「ほんと、誰の得になるんか」
殴られた頬をそっと撫でる。
無心で棺の中を覗いて、無心で線香に火を灯す。揺れる煙がやけに鼻の奥を突いてくるんを感じた。がその白い煙の形はまるで女の揺れるおさげんようで、
「ケンちゃん!」
こちらを振り向いて名前を呼んでくる。
「―――はぁ」
きっと疲れとる。わしゃぁこの女のことが嫌いじゃったはずじゃ。清々しい気分で突き放したのに。
なんに、どうして―――
また顔をなでおろして、傷に触れて、誰にも聞こえんぐらいの声で、嗚咽混じりで答える。
「―――ちづ」
そうカノジョの名を呼んだんじゃ。
いっつもはどがぁにこもぉても応えてくれる返事はどれだけ待っても帰って来ちゃぁくれんかったんじゃ。
が煙になって振り返ったカノジョの顔は笑ってしまうほどに綺麗じゃったんじゃ。
一粒、一粒と握った拳の上に雫が落ちてゆく。げにこがぁなこたぁ誰の得にもならん。言葉にでけん渦巻く不安定感。
ゆい訳をえっとしたんじゃ。そうしてもちづは帰ってこなぃんじゃ。そがぁなこたぁ分かっとったんじゃ。
「―――幼なじみのままがえかった」
きっとそればっかしゃぁ本心じゃったゆぅて思う。
カノジョがいつからこうなったんか分からんかったんじゃ。カノジョへの言葉。言葉。見つからん。そがぁな都合のええ言葉。意味をなさん言葉。
「わしゃぁカノジョが好きじゃし、嫌いでもあったんか」
また存在する言葉で誤魔化したんじゃ。
――――――――――――――――――――――
四月の風に運ばれ、寮に足を運ぶ。
この寮は五人部屋で、今まで暮らしてきた家と比べもんにならんほどに窮屈じゃったんじゃ。
しかも女の兄がおった。なんでこんなぁがいる空間で川の字になってまで寝のぉたらいけんのんか。
そがぁなことを思うちゃぁ、後ろから睨まれとることを背中で感じた。
冷や汗が止まらん。
体調も悪い。
あれから家族以外の女がめっきりだめになってしもぉたんじゃ。話せなぃんじゃ。男じゃったとしても、相手の顔を見ることが出来なぃんじゃ。見ようとしても黒い霧んようなもんが顔にかかっとる。きっといびせぇんなんじゃ。きっとまた被害者ヅラしてしまうから。どっちが悪いんか見分けがつかのぉなってしまうから。
下を向いて生きていこう。そうすりゃぁ何にもならんはず。
同じ学年のやつの顔も、先輩方の顔も見れん。見らりゃぁせん。
入学式も終わり、ただ俯いて本を読む。
伝えられた言葉なんか適当にあしろぉて、ほいでまた下を向く。
春が過ぎ、夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬が過ぎ、また春が来る。そがぁなことをずっと繰り返すだけ。みやすい事じゃ。
みやすい事。
――――――――――――――――――――――
この前からわしを見る目線が増えた気がする。
しかも嫌いとかいった感じでのぉて、単なる好機の目線。
誰かはなんとなく予想がつく。同じ部屋の鳥射じゃ。寮内でも同じような目線で見られとるけぇの。きっと額の傷でも気になっとるんじゃろう。このクソみとぉな傷跡が。
鳥射。以前聞いたことある名前じゃ。なかなか見ない名前じゃけぇ覚えとる。確か家の時計の部品を売っとるところの親会社じゃ。西日本の会社じゃがこちら側に軍事用品もそこそこ生産しょぉったはず。そがぁなでかい会社の息子がこがぁなところに通っとるたぁ。
「―――仲ようなりゃぁ時計屋を大きゅぅして貰えて、おとん達にも褒めてもらえて、予科練の試験を受けさしてもらえる?」
そがぁなわけが無い。駄目じゃ。駄目なことを思いついてしまう。
利用しとぉなぃんじゃ。またひこずり込んでしまう。身勝手な行動に。
耐える。耐えろ。耐えてくれんさい。
無理に抑えて自分に問いかける。
クズにゃぁなりとぉなかろう?
もうはぁクズになっとるんはわかっとったが、まだ自分は大丈夫なはずだと心が受け付けんのんじゃ。
そうやって耐えとるわしを知ってか知らずか、こんなぁは何回も何回も何回も話しかけてくる。今日の授業のこととかみやすい会話じゃが、一言じゃったとしてもその言葉がずっと心に刺さってくる。広島訛りの標準語がぼちぼちと、ジリジリと。
わしゃぁその度適当な言葉で返す
そうすることで、一日が過ぎ、二日が過ぎ、三日が過ぎ、一週間が過ぎ、一ヶ月が過ぎ、半年が過ぎ、一年が過ぎてくれる。
そりゃぁ今までの中で一番とろい一年じゃったんじゃ。新しい環境じゃったけぇっちゅう理由もあったんじゃろうが、心はずっと窮屈で、何かを考えることもままならず。正常なフリ。そがぁなままでいることだけが今は幸せ?じゃったんじゃ。
主人公っちゅうもんが羨ましぃんじゃ。なんでかぁゆぅたらその人種は報われることがたいがいじゃけぇじゃ。何をしてもええがぃにいく。辛かったなぁ過去ばっかしで、生きとるばっかしで仲間に恵まれ、最適な終盤を迎えられるんじゃけぇ。
そう思いもって手元に閉じられた駆けれメロスの表紙を撫でる。
――――――――――――――――――――――
二年生になって、若干伸びた背を縮めて酷く混んだバスに二人で乗り込む。かるぅ息をついてもう一人が目視できる範囲にいることを確認し、手すりに捕まる。学校終わりの真昼間からこがぁなことをしょぉって自分ながら馬鹿じゃゆぅて思う。こがぁなことするぐらいなら勉強しょぉった方がマシじゃ。ジリリリとセミの声が耳に酷く残る。
しばらく乗ったバスを降りた先にゃぁ商店街が並んでおり、こまい頃に行ったことがある映画館でたちまち目に止まった一番時間の近い映画のチケットを購入する。二階の席は客があまりおらず、言ぅてしまやぁほぼ貸切状態じゃったんじゃ。そんなぁは映画を見たことがないらしゅぅて、興奮してかあたりを何回も見回しょぉったんじゃ。
そがぁなガキんようなこんなぁを差し置いてわしゃぁ金の心配やらせず。ただ今は話す内容を考えとる。
心臓の鼓動が聞こえるぐらいの緊張の中で伝えた。
「映画を見に行こう」
結局わしゃぁこんなぁを利用するしかなかったんじゃ。ただ暑苦しい虫の声のせいにしたなんぼいに腹立たしぃんじゃ。限界じゃったんじゃ。部屋の机で本を読みょぉると、こんなぁが急に本の話をしてきて、その本が元海軍兵士が執筆したもんじゃけぇか、それから将来は兵になりたいなんてことをゆい出したんじゃ。ほいでわしの将来の夢も聞いてきたんじゃ。わしゃぁ何も答えられんかったが、その時から黒い霧はかなり濃ゆぅなって、顔の形も分からんほどになりょぉったんじゃ。夢。わしゃぁまた同じ道を歩くんか。そうも思うてちづの顔を思い出すと、泣きそうになったがそがぁな姿をこんなぁに見られたら変に思われそうで必死にこらえた。どれだけクズになりゃぁ気が済むんじゃろうか。がこんなぁが嬉しそうな声で
「ええの!?」
そう言ぅてくれたのがせめてもん救いじゃゆぅて思う。
いや逆じゃの。嬉しそうな声は結局わしを苦しめるんじゃ。
変に考え込んどるゆつの間にか映画は終盤に差し掛かっとったんじゃ。相変わらず顔は見えんが主人公が好きな人に告白する場面じゃ。
「あ、これ恋愛映画じゃったんか」
不意にそがぁなことを口ずさんだんじゃ。
「ずっと好きじゃった」
「―――わしも」
そがぁな無意味な言葉を口にしたあと男女はキスをしたんじゃ。幸せそうに、お互いの愛を確かめ合うように。
つまりもせん
男女の仲やらたんじゃの妄想に過ぎないんじゃ。たとえそれが映画でなく現実じゃったとしても。
あまりのつまらなさに欠伸をしたんじゃ。
がこんなぁもそうたぁ思わんらしぃんじゃ。ふいに左の席を見ると気まずそうに指を弄っとるんから。
女みたいになよなよしぃんじゃ。わしの家なら殴られて無理やり男らしさを強制されるんが普通なんに。
羨ましいもんじゃ。こんなぁはきっと今ばっかしゃぁ何にも縛られず自由に生きられるんじゃろうから。さぞかし優しい親なんじゃろう。卒業したとしてもどうせ家業を継ぐから自由にさせとるんか?きっと兵士になりたいなんて口先だけの戯言じゃ。わしのほうがなりたいに決まっとる。
きっとこんなぁにゃぁ傷すらついたこともないんじゃろう。たんじゃの有利な人生。わしみたいに特別変でものぉて、普通に大切にされた普通の人間。
普通の人間たぁどがぁな顔なんじゃろう。―――傷すら付いとらんこんなぁはどがぁな顔をしとるんか。
そう考えてしまうとなんとなく気になってしょうがのぉなって映画なんて頭に入ってこなぃんじゃ。
またこんなぁの顔があるじゃろう方をちらっと覗く。
「―――」
頬があるじゃろう場所に手を伸ばし、絹んように滑らかな肌をそっと撫で下ろす。
「わっ!ど、どうした!?」
動揺したんか焦ったように鳥討は身を後ろへ引く。
「―――いや、何でも」
瞬く間に霧は広がり、ついに首元まで隠れてしもぉたんじゃ。が、見えなくとも顔は存在しとるようでなんとなく安心したんじゃ。
いぬる時、鳥討はずっと黙ったままで見るからに気まずそうじゃったんじゃ。―――まあそうでの。恋愛映画見た後にされたら普通驚くか。
「何してんじゃろ。わし」
いんじゃあと布団の上で静かに目を閉じる。
次はどこに行こうかとただ悩んどったんじゃ。
だってそうせんと仲ようなれんから。
夢なんて叶いっこなくなる。
―――明日は顔見れたらええな
そうは思うが、きっともうこんなぁの顔はもうわしにゃぁ見らりゃぁせんとも、なんとなく思うたんじゃ。そがぁなこたぁとっくに分かっとったし。
クズにゃぁクズなりの夢があるんじゃ
わかって欲しいたぁゆわんし言えん
きっとこがぁなんも、たんじゃの妄想に過ぎないんなんじゃ。わりゃぁ存在してくれとらんのんじゃろう?存在してしまうと都合が良すぎるんじゃ。
心のなかでゆい訳をして、だれかのむせたような咳が部屋に響く中わしゃぁ死ぬように眠ったんじゃ。
――――――――――――――――――――――
学校を出てしばらく行くと西洋風の建物が並んだ一見するとここが日本じゃゆぅことを忘れるような場所があるんじゃ。そこの喫茶店のコーヒーがまた格別なんじゃっちゅぅて千葉っちゅう同室の先輩が言ぅとったんじゃ。
「ドイツ人が経営してんだんじゃ。味も悪ぅなぃんじゃ。まあわしの育ったフランスにゃぁ負けるがな」自慢げに短い髪を揺らす帰国子女の千葉を適当にあしらい、ほいでわしゃぁすぐさまそこへの行き方を書いたメモを貰い、鳥討を探したんじゃ。
「―――われ、わしになんかいなげな気でも起こしとるんか?」
喫茶店に着くと開口一番こがぁなことをゆわれ変に腹が立ったんじゃ。そがぁなことでわれを誘うわけが無いじゃろう。わしの幻覚のくせにどうして都合ようならんのんだんじゃ。
「ちげーよ、たんじゃの友達としての好じゃ」
適当に思いついた言葉をちぃと笑いもって返す。友達なんかはげに要らんかったが、ここにいる理由ばっかし作る為ばっかしにこの偽りの関係を利用したんじゃ。
「ともだち?」
鳥討はそがぁな言葉がいなげなんか、疑問形でぽつりとそがぁなことをゆぅた。
「なあ、ゆわさ―――
「ゴチュウモンハオキマリデスカ?」
なにか喋ろうとした鳥討を遮って外国人のマスターがカタコトの日本語で話しかけてきた。
わしゃぁそんなぁがゆおうとした言葉なんかは気にもとめんかったんじゃ。どうせ後で話そうとしてくるじゃろうし。
「コーヒーを一杯つかぁさい。あとこんなぁは―――」
「あいすくりいむを一つ」
マスターは軽い会釈をしてカウンターに入ってったんじゃ。
「驚いた。ガキみとぉなもんを頼むんじゃのぉ」
そう言ぅて何気ない会話を振っちゃる。鳥討はしばらく考えて、
「食べたこと無かったけぇ食べてみたくて」
と確かにそうゆぅた。どがぁなぼんぼんであってもさすがに食べたことが無いもんもあるじゃろう。変に納得して、運ばれたコーヒーに牛乳と砂糖を入れてぼちぼちとかき混ぜる。ひとくち含むばっかしでコーヒー特有の苦味が口えっとに広がったんじゃ。足りなぃんじゃ。もっとよこせとゆわんばかりに牛乳のまろやかさも消えていく。
「岩崎はわしの事友達じゃのぉんて思うとらんのんじゃろ?」
時間が止まる。
なんでそう思うたんかは知らんが内心を読まれた気がして冷汗が止まらなくなったんじゃ。
「なんでそう思うた」
「変に思うかもしれんが、われの目がおとん上と同じに見えて―――。ホンマはわれもわしなんかにゃぁ興味なんてんのんじゃろ?無関心なんじゃろ?」
―――こんなぁは何を言ぅとる。興味?おとん上?同じ目?なんの事じゃ。
「無関心はわしにもわれにも毒になる。わしを利用したいとゆうんじゃったらやめとけ。利益がない」
利益っちゅう言葉に体がピクっと反応する。いっつもたぁ違うこんなぁの訛ってすらいない標準語が気持ち悪い。
今はまた適当な言葉を返すしか無かったんじゃ。
「わしゃぁそうは思わんがな」
果たして利益はあるっちゅう意味なんか、友達じゃっちゅう意味なんか。どちらの意味でゆぅた言葉なんか。そりゃぁわしにも分からんかったんじゃ。
またなにかゆおうとした鳥討の目の前にアイスクリームが運ばれる。
よう分からん状況に頭の整理が間に合わん。バレとった?でもバレてるってこたぁ利用しようとしてもでけん状態じゃゆぅことじゃ。
―――えかったんじゃ。もうひこずり込めなぃんじゃ。
が気まずいなぁ変わらず、気晴らしに中身がちぃと残ったカップを覗く。ちぃと傾けると溶けきらんかった砂糖が底でキラキラと輝いとる。あの夜のあの星んように。満天の星が広がっていく。
ふと目の前を見る。
目がおぉたんじゃ。
死んだ目。光すら入ってこないほどの漆黒さ。目しか見えんのに、ずっとその目に吸い込まれる。黒い霧も広がっていく。こんなぁの口に運ばれていくアイスクリーム。ぼちぼち、ぼちぼちと溶けていく。見えのぉても何となく想像できるあどけん表情、手ばっかしで分かる病的な白い肌、そがぁなんまるで、まるで―――
「ちづ?」
「―――はあい」
黒ぉ染まりきった鳥討。わしの目の前にゃぁ不敵に微笑むちづの影がおった。
わしゃぁなにかに気づいたようにちづに心の中で問いかける。
「きっとわしもわれと同類なんじゃろう。成り下がってしもぉたんじゃの。叶いっこない夢を永遠と追いかけとる」
「ええそうね」
昔んように嬉しそうにゃぁ答えちゃぁくれんかったんじゃ。
「で、わりゃぁわしにどうして欲しいんなんじゃ。この黒いやつわれのせかろ?」
「違うわよ」
案外バッサリ切り捨てられて何も言えなくなる。
ちづは続ける。
「この黒いもんもあんたが勝手に作ったもんなんよ?言ぅてしまやぁたんじゃの幻覚のぉ。だってわしもあんたが作ったたんじゃの幻覚に過ぎないんじゃけぇ」
そがぁなん知っとる。でもせめてもん救いが欲しぃんじゃ。
「死んだ君がずっと羨ましいわしゃぁはぁ死んでしまいたいんなんじゃ。もう疲れた。夢だってもう叶わんし」
夢を叶えるために突き放した相手に堂々と死にたいなんてことを口駆ける。どうせ幻覚じゃ。何を言ぅてもこんなぁは傷つかん。
「何が現実なんかもわしにゃぁ分からんよ。きっと鳥討も、ここも、全てわしの妄想に過ぎん。ホンマはわしゃぁ死んどるんじゃろう。こがぁなんたんじゃの天罰じゃぁや」
「あらようゆうわぃねぇ、そがぁな中で好きな人は出来たくせに」
またんじゃ。ほいでからに、ようわからん言葉。げに昔からこんなぁはいなげな言葉しか話さん。げに面倒臭い。このキチガイめ。
「あんたぁただそっぽ向いとるだけなんよ。こがぁなもんのせいにして」
ちづはぼちぼちと黒い霧をかき分けた。ちさい虫を払い除けるように。
わしの目の前にゃぁ溶けてすくうことも出来ないアイスクリームが残った器と、小銭が置いてあるだけじゃったんじゃ。
「鳥討―――?」
肝心の本人はおらん。
「ちがう、こんなぁはたんじゃの都合がええだけの幻覚なんだんじゃ。存在するはずなんてなぃんじゃ。われなんか居のぉても、わしゃぁ―――」
よう分からん気持ちでいると机の上に力強く握った拳から血がぽたぽたと落ちる。
「ホンマはわかっとったんじゃろ。みな」
「は?」
その言葉を聞いた瞬間。重いまぶたがパチリと音を立てて開ききる。
わしゃぁ小銭を店主に渡して、釣りすら貰わず、鳥討を駆けって追いかける。
こがぁな気持ち初めてじゃ。
いつしか見たメロスんように駆けって、駆けって、駆けって、息切れを起こしもって、無様に転んで、
はぁ、はぁ、
こがぁに駆けったなぁいつぶりじゃろうか、肺が破れそうなほどの空気を吸い込んだんじゃ。じゃが、なんでか体は新鮮な空気を欲しがらん。吸った瞬間に倦怠感と吐き気が襲う。
目の前にゃぁ一人、とぼとぼと歩くあんなぁの姿。
セミの鳴き声がうざったいほど耳についてくる。
こがぁな感情になるんはきっと夏のせいじゃ。息をするんも苦しぃんじゃ。ただ今ばっかしゃぁ君のことを考えとったいのに。ほんまのことを知りたい。伝えたい。存在を確かめたい。
前を進む腕を緊張の中で力強く掴む、
ほいで告げる
「映画を見に行かんか!」
そこにゃぁ勢いよう振り向いた、雨に濡れた黒曜石んような目がよう似合う顔立ちで、優美なあどけなさが印象的な愛おしさすら覚えるわれがおった。
わりゃぁ口を開く
「ほんとよう分からんやつじゃのぉ―――わりゃぁ」
泣きそうな声で、泣きそうな目で、そがぁにわりゃぁ笑顔で振り向いた。
あぁ、幻覚じゃなかったわりゃぁ存在しょぉってくれたんじゃの。
鼓動が早(はよ)ぉなる。ぼちぼち。ぼちぼちと、時間をかけて
わしゃぁわれともっと話したい。君を知りたい。
ほいで、つまりもせんし、われを悲しませてしまうかもしれんが、われを利用してでもわしゃぁ夢を叶えたい。
でも、その代わり、絶対にわれを幸せにしちゃる。
そう勝手に誓った
自分勝手がすぎる
自分の気持ちが分からのぉなってゆくこがぁなん自分じゃらん。
――――――――――――――――――――――
普通っちゅうもんにゃぁこんなぁは慣れとらんらしぃんじゃ。こんなぁは箱入り息子でなかなか外にゃぁ出られず、出るとしてもここに来る前は敷地内や小学校へ行くための決まった道だけしか出られんかったそうじゃ。遊び相手も兄弟としか許されんかったようで。わしもたしかに出られるところは制限はされとったがここまでじゃぁなかったゆぅて思う。
そがぁに親に溺愛されとるけぇなんか?さすが大富豪じゃ。としかゆいようがなぃんじゃ。
「そがぁなくせに金はねえんでな」
ぎこちなくアイスクリームを食べる鳥討を横目にそがぁなことをつぶやく。
きょうびは中国との戦争のせいなんか物価が高騰しとる。わしにとっちゃぁあまり困ることじゃぁ無いが、鳥討にとっちゃぁそうもいかんらしゅぅて、家からの仕送りすらまともにないようで、好きになったアイスクリームすら食べらりゃぁせんようじゃ。
「すまん。資本家の息子が金欠なんてなあ」
あまりに申し訳なさそうに笑いもって顔を俯かせるけぇ、文句すらゆう気にならんかったんじゃ。
「別にええ。好きな物は好きなだけ食べたい気持ちも分かる」
わしゃぁぼちぼちと机に置かれたティーカップを混ぜる。
「いつか何かの形で返すから―――」
急な言葉じゃったがいまいち驚きもなぃんじゃ。
「ああ、いつかな」
今すぐにでもそれを形にして欲しいたぁ内心思うたが、さすがに口にする勇気はわしにゃぁなかったんじゃ。
「わりゃぁ将来何になりたいんじゃ?」
しばらく沈黙が続く中そがぁな言葉が投げかけられる。
「わしゃぁ…」
また沈黙が続く。言ぅてええ事なんか分からんまま。時間が過ぎる。ほら、夢はゆうと叶わんなんて言葉もあるじゃろう?口は開くが肝心の言葉が出てこなぃんじゃ。こんなぁはわしの家が時計屋じゃゆぅことを知っとる。きっとこがぁな無責任な夢なんて笑われてしまうじゃろう。そろそろこがぁなことに慣れてしまいたい。無責任ななぁ元からだし、鳥討はこがぁなことで笑う奴じゃぁなぃんじゃ。わしの口から出る一言一言がいちいちわし自身を悩ませる。
ふと前を見るとアイスクリームが溶けて染み込んだウエハースをまるで貴族かんように上品に食べる鳥討がおった。こちらのことをたまに気にして、ちらちらとこっちに目を合わせとったんじゃ。
ウエハースを食べ終わった鳥討が痺れを切らしてゆう。
「こがぁな話去年もした気がする。われも相変わらずじゃのぉ」
そがぁな気を使った言葉をかけられる。
なんだか情けなく感じるし、呆気なくも感じる。
店主に小銭を渡してぼちぼちと二人でバス停まで歩く。
その道中飛行場から飛び立ったばかりか着陸前なんか一機の飛行機が一直線に飛びよぉったんじゃ。
無意識のうちに目で追いかけた。
そがぁなん姿を見てか鳥討は聖おかんのんようなほほ笑みで、
「どがぁな夢であっても、わしゃぁ素敵じゃゆぅて思うぞ」
そう言ぅてきた。
こんなぁは心でも読めるんじゃろうか。
「その言葉遣い気味が悪いな」
こがぁな言葉しか今は浮かばんかったんじゃ。
ゆわれた言葉が心外じゃったんか、ぺちぺちと叩いてくる鳥討を見ょぉると笑いが込み上げてきた。
先輩方から柔道の練習を受けとるくせに、力も弱い。じゃけぇすぐ投げられるんじゃ。
げに女々しいやつじゃ。
「げに、可愛いやつじゃのぉわりゃぁ」
「っ!なんじゃわれ!」
背中をバチンと叩かれた。微妙に痛い。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
年末の大掃除のテゴをそそくさと終わらせて洋室の弱まった暖炉の火に薪をくべる。暖炉の火は喜んどるようにぱちぱちと音を立てながら薪を食べょぉる。そがぁな様子を眺めながらわしゃぁよう冷えた霜焼けの手足をそっちへ向けた。
「ケンタ!ようもまあ友達が掃除をテゴしてくれとる中で一人だけ温まろうゆぅて思えるねぇ!」
振り返るとそこにゃぁ鬼んような顔をした姉の姿があったんじゃ。
「うげ、ねーちゃんかよ」
「ねーちゃんかよじゃなゆわよ!ちゃっちゃとテゴの。このボンクラ!」
バタバタと急ぎ足で出ていく姉を見送った後、馬鹿力女からの暴力は受けとぉないのでしゃぁなく重い腰をあげようたぁしたが、その前にそばに置いてあった畳んだばかりの半纏を引き寄せようと寝ながら足を伸ばしたんじゃ。
「あの、お姉さん。この荷物はここでええか?」
「あら、ありがとうね鳥討クン。いやあ、うちの弟たちたぁ大違いのぉ。取り替えたいぐらいだわ―――」
隣の部屋から聞こえる急な鳥討の声に焦りもって、すぐさま立ち上がりもちぃとで足が届きそうじゃった半纏を手で拾い、それを重ねて着る。聞き耳を立てると鳥討の「いえいえ」ゆぅて謙遜する声が聞こえた。姉はまだまだ話し足りなさそうなんでもう暫くは戻っちゃぁ来なかろう。忍び足で自室へ行き、勝手にわしの雑誌を読みもってわゆわいと話しとる兄達の頭を叩く。結構ええ音で鳴ったんじゃ。きっと中身は落花生みたいに空間でもあるんじゃろう。
「いった!尊敬する兄ちゃん達に何すんだケンタ!」
「人の部屋に勝手に入っといて何言ぅてんで!―――うわっ」
次男の正治が声を荒らげながらわしを床に押さえつけた。
「兄貴たちを叩いてきたってこたぁそんぐらいの仕返しもされる覚悟があったてゆうことでなぁ」
「雅紀にーちゃん!?」
「兄ちゃんやっちまえ!」
がははと正治の笑い声が部屋に響く中、のっそりと立ち上がる長男の雅紀が半纏の紐に手を伸ばしたんじゃ。
「はー!極楽極楽!」
「おいケンタわしのぶんも持ってこい!さもないとその袴と着物剥ぎ取って褌一枚と帽子ばっかしで店前の雪片付けさせるかんな!」
兄たちに着たばかりの半纏を取られてしまい、がっかりした気持ちで正治にゆわれた通り半纏を探しにまたもや忍び足で歩いてゆく。
「うぅ、寒う」
さっきの洋室の前まで行くと、姉の椿がまだ鳥討と楽しそうに話しとる声が聞こえた。兄たちの悪業を告げ口をしちゃろうかとも思うたが結局は三人仲よう褌一枚で雪かきじゃろう。そう想像するとゾッとして、ちぃと小駆けりになる。焦りのせいか若干目の前が歪んで見える。
服が閉まってある箪笥がある部屋まであと残り五十メートルくらい?まで来た頃。後ろから物音がし、急いでちこぉの部屋に隠れた。そこは浴室で、さっき溜まったばかりなんか湯船に乗った蓋の間から湯気が出てきとったんじゃ。足音は、こっちへ向こぉてくる。「うわっ!失敗した!」そう思うて心は今すぐにでも逃げるべきだと問いかけてくる。じゃが寒さでおかしゅうでもなったんじゃろうか、暖かそうじゃのぉとどうでもええ事ばかりが内心頭に浮かんどったんじゃ。目の前が只々揺れとる。
「うわっ、すんません。誰か入っとるゆぅて思わんくて―――い、ゆわさき!?」
「鳥討…われさっきまでねーちゃんと話してんかったか?」
「そうなんやが、疲れたやろうから風呂はいつまできんさいゆわれて」
「…ほうか、驚かせてすまなかったな」
そう聞いた瞬間身体の力がドバっと抜けた。ほいで入ってきたのが姉でのぉてえかったと心底思う。わしゃぁそのまま引き戸に手をかけようとしたんじゃ。なんぼ浴室じゃゆっても冬は冬。足元にできた湯溜まりがすぐに冷水になっていくんを感じる。尋常じゃぁない寒さ、服を着とってこれなんじゃ。着物をちぃたぁだけさせながら立っとる鳥討の方が辛いに決まっとる。鳥討にも申し訳もできゃぁせん。
「いや、その前になんでわれがおるんや。われだっと姉さんに掃除やれゆわれとったし」
一目散にも出ていきたい気持ちがたったの一言によってさらに強くなる。
「風呂掃除しようゆぅて思うたけぇじゃ。とにかく出るよわれも寒かろ…」
下手くそな嘘でたちまちその場を収めようとしたんじゃ。せっかく気をつこぉちゃっとるんになんてことも思うたが、気を使いあっとるんは相手もおなじじゃゆぅて考えをもっぺんみた。きっとそっちの方が考えのぉて済むから―――とにかく、わしゃぁ引き戸をぼちぼちと引いた。
「ま、待ってくれんさい!」
後ろからまたわしを引き止める声がしたんじゃ。今度の言葉にゃぁさすがにイラつきを隠すことも出来なぃんじゃ。「もうえかろう」ゆぅて、素っ気ない言葉で返してしもぉたんじゃ。
「岩崎も風呂入ろう!」
―――は?
「あ、違っ―――別にそがぁな好意とかそがぁな気持ちじゃのぉて…べ、別にえかろ!?寮でも一緒に入ることもあるし―――。とにかく、われも寒そうだし、今話したいことあるから…だめか?」
―――。
「だ…だめでな!すまん忘れてくれ、たんじゃの冗談にしちゃぁ流石に気色悪かったな!ははは…何言ぅてんだわし―――」
―――。
広い訳でもなくかゆって狭い訳でもない湯船が妙に体に適合する。じゃがそがぁなことも忘れるくらいのことが今起こっとるんじゃ。何となく実感する。
寮の風呂はそがぁなことなんか意識なんてしたこと無かったんじゃ。多分うるさい先輩方の話を聞きすぎてそがぁなことを思う暇なんてもんがなかったんじゃろう。それに隣の鳥討の顔がお湯が熱いせいか、はたまた恥ずかしがっとるんか、頬と耳があこぉ火照っとる。そがぁな顔をされちゃぁこちらも反応に困るじゃろう。
やっと鳥討の口が開かれる、
「岩崎は優しいのう…」
「っ…どこがじゃぁや」
「ええと、わしのこうゆうわがままを真剣に受け止めてくれたりとかじゃろうか」
急な方言を使った慣れん言葉に違和感を覚えた。
「われ、ねーちゃんに酒でも飲まされたんか?」
「われを好きなわしゃぁ嫌か?」
冗談なんか、本気なんかいたずらに笑いもってわしを見る君の顔がどうにも好きじゃったんじゃ。
長距離を駆けったように息切れを起こしそうだ
心臓が痛ぉ苦しぃんじゃ。高鳴りが隠せなぃんじゃ。
「映画を見に行かんか!」
腕を掴んでそがぁな身も蓋もないことをゆう。その日はただうざったなんぼい暑い中で、ジメジメと限界に近づいた心に終止符を打とうとしただけなんじゃ。
「出会やぁ偶然、別りゃぁ必然」っちゅう言葉があるように人間関係っちゅうなぁ案外すぐに崩れるもんじゃ。
少のぉてもわしゃぁそう定義しとるっちゅうことにしとこう。が出会う時や別れる時なんて誰でもわかる訳でもないのもまた事実なもんで、あんなぁとの出会いもあまりに偶然的で、んじゃがそうなるんも納得がいくようで、なるべく会いとぉなるような、できるなら会いとぉなかったような奴じゃったんじゃ。
ここまでゆうのも理由があるんじゃ。
手を引かれ崖に立って、好きじゃゆわれた。
「海で死ねば綺麗な星が海の中から見放題なんよ?」
他の言語を話されたように理解でけん。無を知ったんじゃ。意味をなさん言葉。夜の風が痛いほど頬をかすめたあの日。
共に落ちる中、繋がれた幼なじみの手を離す。
途端の強い衝撃。最後に見た女の顔、あんなぁの表情はこれ以上ないほど笑ってしまうほどにに無じゃったんじゃ。
そんなぁの顔はあのキチガイ女に似とったんじゃ。あんなぁの顔を見ちゃぁほいでからに、あの女を思い出してしもぉて、また額の傷口を痛めるんじゃ。目の形。ホクロの位置。笑った姿。思い出す。全てが嫌いじゃった訳でもなかったのに。
ただ特別愛しょぉった訳でもない女に心中しようとゆわれ、殺されそうになるんが気持ち悪かったんじゃ。んじゃがしあの日押しのけてしもぉたとしても関係性は終わってしまうんじゃろう。きっとカノジョは自殺する。どっちにしろわしゃぁきっと悪者になってしまう。それならわしゃぁカノジョと幼なじみじゃったままのほうがきっと幸せじゃったんじゃ。
棺の女の酷く膨らんだ顔を覗いて、女の兄から殴られた頬を頭から額の傷の順番に撫で下ろしたんじゃ。わしの家族と相手の両親は理解こそ示してくれたが隣人間の仲に傷が付いてしもぉたし、がただ答えが欲しかったんじゃ。どうしてカノジョの愛にええがぃに答えられんかったんじゃろう。なんでこの気持ちを言葉にでけんのんじゃろう。
下ろした手で線香に火を灯す。得られたなぁ答えでなく結局は痛みだけじゃったんじゃ。
そがぁな痛みを思い出して、あんなぁと距離をとる。
そがぁな日々。
名 岩崎 健太郎
大正十四年 五月五日 火曜日
東京都中央区銀座で時計屋を営む家庭にて四番目のガキとして生まれる。
家族構成は おとん、おかん、姉、兄、兄、弟、妹じゃ。
語学に優れとり、七ヶ月半で話し始め、十歳にして漢語と朝鮮語を家庭教師から習い、日常会話を話せるようになる。ほいで、英語も共に勉強しだす。その他の教科も人並み以上にこなし、語学の他にゃぁ特に図画が優れとったんじゃ。
全ての大ひとらがあんなぁを褒めたたえる中、長男が通っとる七年制高校への進学が望まれとり、本人自身も進学を望んどったようで。猛勉強の末
見事合格。
今の周りから見た自分のことをゆやぁきっとこがぁな感じなんじゃろう。
「鬼才」
がこがぁなこたぁたんじゃの過大評価に過ぎず、勉強し始めた理由なんかは実際はもっとしょうもなぃんじゃ。漢語や朝鮮語なんかはわしにとって勉強したとしてもいらんもんじゃったんじゃ。がわしの場合は環境のせいで勉強をする羽目になったんじゃ。店の支払い場に立てば金持ちの漢民族や朝鮮民族がわしの方を見ちゃぁ無駄にでかい言葉で怒鳴ってきたり、バカやノロマとか言ぅてくるんじゃ。しかもバカにニヤニヤしもって自分の国の言語で話してきやがる。言葉が分からんからゆってなんでも言ぅてええ訳でもなかろう。決心したなぁ四つの頃。親が何を言ぅとるんか分からずオドオドしとる様子を見ちゃぁ笑っとるやつらが腹立たしかったんじゃ。それを見返すために、ただそれだけのことばっかしで勉強しただけっちゅうことなんじゃ。家の歴史書や漢文、朝鮮語の本を読み漁る日々じゃったんじゃ。英語も同じ理由。そがぁな末そがぁなことをゆわれる度に同じ言語で返しちゃって、相手の恥ずかしそうな顔を見ちゃぁ内心喜んだんじゃ。そうじゃ、こりゃぁたんじゃの自己満足なんじゃ。国際的なことをしたい訳でものぉて、実家のテゴをしたい訳でもなぃんじゃ。
じゃが、勘違いして欲しゅうないなぁ客の中にゃぁ優しい人達もいて、直接教えてもらうこともできたっちゅうことじゃ。英国人にゃぁ「Please tell me how to pronounce it」漢民族にゃぁ「请告诉我怎么发音」じゃことの言ぅてしまやぁ教えて貰えることが出来て、それを聞いた人達は自国の言葉を理解してもらえるっちゅうなぁやっぱし嬉しいらしゅぅて、高い時計を買(こ)ぉてくれることもあったし、お小遣いやお菓子をくれることもあったんじゃ。それらを貰ったわしゃぁさらに頑張ろうゆぅて思えた。
が勉強するこたぁ元から嫌いじゃ。両親から出された課題と学校の課題をしようとした途端背負っとった弟は泣き出すし、妹が引っ付いてくる。家に侍女はいたもんの一人しかおらず、ただでかいだけの家を掃除するばっかしで手一杯なんじゃろう。ガキのことまじゃぁあまり手が回っていなかったんじゃ。姉さんは隣町に住んどるし、兄さん達は学校で、両親は仕事。家にいるんは小学校から早(はよ)ぉいんじゃわしだけ。そうとなりゃぁ子守りをするんはわしばっかしになるじゃろう。
ガキがガキを子守りする。今の時代、そこらじゅうで見かける光景じゃ。特別なことでもなんでもなぃんじゃ。野暮なことをゆうがわしゃぁ子守りの時間も嫌いじゃったんじゃ。嫌いなもんを足し合わせても結局ようなんてならん。ネズミが虫の死骸を食べょぅても、虫がネズミの死骸を食べょぅても気持ち悪さしか産まんじゃろうし。
そもそも七年制高校なんか行きとぉなかったんじゃ。両親はさぞわしが嬉々として志望したかんように話すが志願は無理やり書かされたもんじゃったんじゃ。涙を流して文字が滲んじゃぁまた書き直された。「泣くなんて男として恥ずかしゅうないんか」「兄を見習え」散々罵倒された。そのせいで出願が通ってしもぉたのが一番はぐいかったんじゃ。そうしてズルズルと荒い土の上で引っ張られるように痛ぉ、苦しゅぅて、見苦しい時間がすぎていき、わしゃぁついに「七年制高校生」ゆぅてゆわれるもんになってしもぉたんじゃ。
両親のこたぁぶち真面目に嫌いっちゅうわけでもなかったんじゃ。尊敬だってしょぉったし、憧れじゃったんじゃ。こうしてわしを七年制高校へ行くように勉強させとったのも、将来的な理由じゃろう。がわしにゃぁ夢があったんじゃ。ガキらしゅうも純粋な夢。
ホンマは航空隊になって、空を飛び回りたかったんじゃ。空は何よりも自由じゃ。何も考えのぉてえやぁずじゃ。お国のためになんかとかゆう立派な理由じゃぁのぉて、ただ自分の為ばっかしにそがぁなことを思うとったんじゃ。
店の前を掃除しとると度々航空隊の練習機が太陽の光に照らされながらうちの店の上を飛び回る姿を見た。ぶち綺麗で、ぶちかっこえかったんじゃ。わしもあがぁな風になれたらええなっちゅう思いじゃったんじゃ。
が帝国大学への進学が約束されたこの学校じゃ。両親的にもそがぁなこたぁさせとぉなかろう。ちゃんとした飛行機の知識を貯えるために、予科練生にもなりたかったが今はまだ年齢的にも無理があるんじゃ。絶対になっちゃるたぁ思うが、それが実現されるとすりゃぁ果たしていつなんじゃろうか。いや、もう無理かもしれん。そがぁなことを言ぅてしまやぁ、また罵倒される。諦めるしかんじゃろう。わしゃぁきっとなりたい自分にも何者にもなれん。航空隊以外で働く姿が想像でけん。
ほいで高校へ行く丁度一ヶ月前、突然隣の家の幼なじみが
「今夜出かけましょう。話したいことがあるん」
そう言ぅてきた。女の名前は佐竹 ちづっちゅうことじゃ。
見た目はあどけん少女じゃし、肩に下がった長ゆお下げと病弱な肌が印象的じゃったんじゃ。顔もよう、頭も割り方ええ方じゃったが、そがぁなもんを台無しにしてしまうほどにカノジョは頭がおかしかったんじゃ。
わしの後をつけてきちゃぁ偶然出おぉたかんように話しかけ、家のゴミを漁り、酷い時は家の中に無断で入ってわしの物をくすねることやらがあったんじゃ。まさにキチガイじゃ。嫌な予感がし、最初は断ったが無理やり腕を引かれ、崖の縁に立たされ心中しようとゆわれた。。こがぁな女と心中なんて嫌に決まっとる。キチガイとなんか―――
ほいで今、
目を合わせ ぼちぼち息を吸い 息を飲む
強い風に押されるように女の背について行く。もう逃げらりゃぁせんこたぁ分かっとったんじゃ。
ため息をついた
何にもなれんのんじゃったら死んでしもぉた方がマシなんじゃぁないか。そがぁな考えが一瞬頭をよぎったんじゃ。ああ、わしもキチガイになっとる。死にたいなんて思うてしまうなんて。
妙に悲しい気持ちで喉が詰まってしまう。
女はゆう「あんたがいないとわし、きっと耐えられる気がせんの」
それもほうじゃろう。このキチガイの生きがやぁなんでかわしになっとるんじゃけぇ。七年制高校へ行くことも、寮生の高校じゃゆうこともこんなぁにゃぁ一言も言ぅとらんのに、そがぁな所まで把握しとるなんて逆に尊敬する。わしにもそれくらい熱中するもんが欲しかったんじゃ。羨ましいもんじゃの。
死のう
そう思うた後の行動は早かったんじゃ。
きっと生きとる意味なんてなぃんじゃ。夢なんてかんっこない
無理やり腕を開き抱き合い
触りたくもない手を取りおぉて
一秒にも満たん口付けをして
愛しょぉったふりをして
跳んで、「落ちる」
「―落ちる」
「――落ちる」
「―――オチル」
「――――おちる」
「―――――墜ちる?」
「このまんま?」
「死ぬんか?」
「げに航空隊になれんまま?」
「夢を叶えらりゃぁせんまま?」
「そりゃなかろう神様」
急に苛ついた。腹が立ったんじゃ。自己中心的な自分に。
夢ばっかりで、行動なんてせんたんじゃの馬鹿野郎。
気付いた時にゃぁそんなぁの手を放しょぉったんじゃ。
海でも地上でもない場所で
ほいで女の顔を見て、笑って言ぅちゃったんじゃ。
「星はもっと近い方で見たほうが綺麗じゃろ?」
清々しい気分で空を見上げる
ガッ
途端にそがぁな音がしたんじゃ。
そりゃぁわしの額が崖から飛び出た岩に叩きつけられる音じゃったんじゃ。
途端に海に落ちる
――――――――――――――――――――――
何でもないように目覚めぼちぼちと体を起こす。身体の痛みゃぁのぉて、ただ腕や足が麻痺したように痺れとる。
「ケンタッ!」
略された名前を呼ばれ、腕が伸びてくる
「―――ねーちゃん痛い」
馬鹿みとぉな力の腕が腰に巻き付いて、痺れが一気に全身に広がったんじゃ。
姉の椿は結婚して隣町に住んでおり、会うなぁ久方ぶりじゃぁあったが、そこまで懐かしさを感じるこたぁ無かったんじゃ。何しろ隣町じゃったとしても、姉の噂はなんでか流れてくるんじゃけぇ。こそ泥を捕まえたり、迷子を送り届けたりやら、警察の仕事が全て取られるくらいの仕事ぶりだそうじゃ。実際はたんじゃの主婦なんじゃが。姉は昔から正義感ばっかしゃぁ異いっつも強かったんじゃ。いや、それよりも強いもんがあったんじゃ。
ミシミシと骨が鳴る音が聞こえる。
この馬鹿力じゃ。
ほぼ無理やり姉を剥がした後、力が抜けたように横たわったんじゃ。ほんまじゃったら今日は寮へ荷物を運ぶ日じゃったんじゃが、怪我があるっちゅうこともあり病院のベットから動けんとぉにおったんじゃ。
あの日からおおかた三日ぐらいたったんじゃろうか。三日間ゆえどもえっとのことがあったんじゃ。血を垂らしもって浅瀬に浮かぶ姿をネキにおった漁師に発見され、すぐさま病院へ運ばれ、手術をし、額を八針縫う羽目になったんじゃ。
身体にゃぁ幸い目立った損傷はのぉて、打撲とアザが残る程度じゃったんじゃ。
女は死んだんじゃ。
目覚めてすぐ、そがぁなことを聞いた。昨日やっと見つかって、今日は葬式らしぃんじゃ。イヤじゃたぁ思うが来ちゃってくれと女の両親にゆわれ、痛めた身体をひこずりもって病院を抜け出して葬式へ行く。
参列に並んで、ある男と顔を合わせる
すぐさま拳が飛んできた。
左頬に直撃する。
女の兄じゃったんじゃ。
どうも女は遺書を残しょぉったそうで
ほぃじゃが、あんなぁは女が今までやったことを知らんらしぃんじゃ。
遺書に自分のやったことぐらい書いて欲しいもんで。
両親もすごいもんよ、息子に真実を話さんとか。
そがぁなことが優しさに繋がるゆぅて思うとることとか。
―――まさに無駄じゃの。
「ほんと、誰の得になるんか」
殴られた頬をそっと撫でる。
無心で棺の中を覗いて、無心で線香に火を灯す。揺れる煙がやけに鼻の奥を突いてくるんを感じた。がその白い煙の形はまるで女の揺れるおさげんようで、
「ケンちゃん!」
こちらを振り向いて名前を呼んでくる。
「―――はぁ」
きっと疲れとる。わしゃぁこの女のことが嫌いじゃったはずじゃ。清々しい気分で突き放したのに。
なんに、どうして―――
また顔をなでおろして、傷に触れて、誰にも聞こえんぐらいの声で、嗚咽混じりで答える。
「―――ちづ」
そうカノジョの名を呼んだんじゃ。
いっつもはどがぁにこもぉても応えてくれる返事はどれだけ待っても帰って来ちゃぁくれんかったんじゃ。
が煙になって振り返ったカノジョの顔は笑ってしまうほどに綺麗じゃったんじゃ。
一粒、一粒と握った拳の上に雫が落ちてゆく。げにこがぁなこたぁ誰の得にもならん。言葉にでけん渦巻く不安定感。
ゆい訳をえっとしたんじゃ。そうしてもちづは帰ってこなぃんじゃ。そがぁなこたぁ分かっとったんじゃ。
「―――幼なじみのままがえかった」
きっとそればっかしゃぁ本心じゃったゆぅて思う。
カノジョがいつからこうなったんか分からんかったんじゃ。カノジョへの言葉。言葉。見つからん。そがぁな都合のええ言葉。意味をなさん言葉。
「わしゃぁカノジョが好きじゃし、嫌いでもあったんか」
また存在する言葉で誤魔化したんじゃ。
――――――――――――――――――――――
四月の風に運ばれ、寮に足を運ぶ。
この寮は五人部屋で、今まで暮らしてきた家と比べもんにならんほどに窮屈じゃったんじゃ。
しかも女の兄がおった。なんでこんなぁがいる空間で川の字になってまで寝のぉたらいけんのんか。
そがぁなことを思うちゃぁ、後ろから睨まれとることを背中で感じた。
冷や汗が止まらん。
体調も悪い。
あれから家族以外の女がめっきりだめになってしもぉたんじゃ。話せなぃんじゃ。男じゃったとしても、相手の顔を見ることが出来なぃんじゃ。見ようとしても黒い霧んようなもんが顔にかかっとる。きっといびせぇんなんじゃ。きっとまた被害者ヅラしてしまうから。どっちが悪いんか見分けがつかのぉなってしまうから。
下を向いて生きていこう。そうすりゃぁ何にもならんはず。
同じ学年のやつの顔も、先輩方の顔も見れん。見らりゃぁせん。
入学式も終わり、ただ俯いて本を読む。
伝えられた言葉なんか適当にあしろぉて、ほいでまた下を向く。
春が過ぎ、夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬が過ぎ、また春が来る。そがぁなことをずっと繰り返すだけ。みやすい事じゃ。
みやすい事。
――――――――――――――――――――――
この前からわしを見る目線が増えた気がする。
しかも嫌いとかいった感じでのぉて、単なる好機の目線。
誰かはなんとなく予想がつく。同じ部屋の鳥射じゃ。寮内でも同じような目線で見られとるけぇの。きっと額の傷でも気になっとるんじゃろう。このクソみとぉな傷跡が。
鳥射。以前聞いたことある名前じゃ。なかなか見ない名前じゃけぇ覚えとる。確か家の時計の部品を売っとるところの親会社じゃ。西日本の会社じゃがこちら側に軍事用品もそこそこ生産しょぉったはず。そがぁなでかい会社の息子がこがぁなところに通っとるたぁ。
「―――仲ようなりゃぁ時計屋を大きゅぅして貰えて、おとん達にも褒めてもらえて、予科練の試験を受けさしてもらえる?」
そがぁなわけが無い。駄目じゃ。駄目なことを思いついてしまう。
利用しとぉなぃんじゃ。またひこずり込んでしまう。身勝手な行動に。
耐える。耐えろ。耐えてくれんさい。
無理に抑えて自分に問いかける。
クズにゃぁなりとぉなかろう?
もうはぁクズになっとるんはわかっとったが、まだ自分は大丈夫なはずだと心が受け付けんのんじゃ。
そうやって耐えとるわしを知ってか知らずか、こんなぁは何回も何回も何回も話しかけてくる。今日の授業のこととかみやすい会話じゃが、一言じゃったとしてもその言葉がずっと心に刺さってくる。広島訛りの標準語がぼちぼちと、ジリジリと。
わしゃぁその度適当な言葉で返す
そうすることで、一日が過ぎ、二日が過ぎ、三日が過ぎ、一週間が過ぎ、一ヶ月が過ぎ、半年が過ぎ、一年が過ぎてくれる。
そりゃぁ今までの中で一番とろい一年じゃったんじゃ。新しい環境じゃったけぇっちゅう理由もあったんじゃろうが、心はずっと窮屈で、何かを考えることもままならず。正常なフリ。そがぁなままでいることだけが今は幸せ?じゃったんじゃ。
主人公っちゅうもんが羨ましぃんじゃ。なんでかぁゆぅたらその人種は報われることがたいがいじゃけぇじゃ。何をしてもええがぃにいく。辛かったなぁ過去ばっかしで、生きとるばっかしで仲間に恵まれ、最適な終盤を迎えられるんじゃけぇ。
そう思いもって手元に閉じられた駆けれメロスの表紙を撫でる。
――――――――――――――――――――――
二年生になって、若干伸びた背を縮めて酷く混んだバスに二人で乗り込む。かるぅ息をついてもう一人が目視できる範囲にいることを確認し、手すりに捕まる。学校終わりの真昼間からこがぁなことをしょぉって自分ながら馬鹿じゃゆぅて思う。こがぁなことするぐらいなら勉強しょぉった方がマシじゃ。ジリリリとセミの声が耳に酷く残る。
しばらく乗ったバスを降りた先にゃぁ商店街が並んでおり、こまい頃に行ったことがある映画館でたちまち目に止まった一番時間の近い映画のチケットを購入する。二階の席は客があまりおらず、言ぅてしまやぁほぼ貸切状態じゃったんじゃ。そんなぁは映画を見たことがないらしゅぅて、興奮してかあたりを何回も見回しょぉったんじゃ。
そがぁなガキんようなこんなぁを差し置いてわしゃぁ金の心配やらせず。ただ今は話す内容を考えとる。
心臓の鼓動が聞こえるぐらいの緊張の中で伝えた。
「映画を見に行こう」
結局わしゃぁこんなぁを利用するしかなかったんじゃ。ただ暑苦しい虫の声のせいにしたなんぼいに腹立たしぃんじゃ。限界じゃったんじゃ。部屋の机で本を読みょぉると、こんなぁが急に本の話をしてきて、その本が元海軍兵士が執筆したもんじゃけぇか、それから将来は兵になりたいなんてことをゆい出したんじゃ。ほいでわしの将来の夢も聞いてきたんじゃ。わしゃぁ何も答えられんかったが、その時から黒い霧はかなり濃ゆぅなって、顔の形も分からんほどになりょぉったんじゃ。夢。わしゃぁまた同じ道を歩くんか。そうも思うてちづの顔を思い出すと、泣きそうになったがそがぁな姿をこんなぁに見られたら変に思われそうで必死にこらえた。どれだけクズになりゃぁ気が済むんじゃろうか。がこんなぁが嬉しそうな声で
「ええの!?」
そう言ぅてくれたのがせめてもん救いじゃゆぅて思う。
いや逆じゃの。嬉しそうな声は結局わしを苦しめるんじゃ。
変に考え込んどるゆつの間にか映画は終盤に差し掛かっとったんじゃ。相変わらず顔は見えんが主人公が好きな人に告白する場面じゃ。
「あ、これ恋愛映画じゃったんか」
不意にそがぁなことを口ずさんだんじゃ。
「ずっと好きじゃった」
「―――わしも」
そがぁな無意味な言葉を口にしたあと男女はキスをしたんじゃ。幸せそうに、お互いの愛を確かめ合うように。
つまりもせん
男女の仲やらたんじゃの妄想に過ぎないんじゃ。たとえそれが映画でなく現実じゃったとしても。
あまりのつまらなさに欠伸をしたんじゃ。
がこんなぁもそうたぁ思わんらしぃんじゃ。ふいに左の席を見ると気まずそうに指を弄っとるんから。
女みたいになよなよしぃんじゃ。わしの家なら殴られて無理やり男らしさを強制されるんが普通なんに。
羨ましいもんじゃ。こんなぁはきっと今ばっかしゃぁ何にも縛られず自由に生きられるんじゃろうから。さぞかし優しい親なんじゃろう。卒業したとしてもどうせ家業を継ぐから自由にさせとるんか?きっと兵士になりたいなんて口先だけの戯言じゃ。わしのほうがなりたいに決まっとる。
きっとこんなぁにゃぁ傷すらついたこともないんじゃろう。たんじゃの有利な人生。わしみたいに特別変でものぉて、普通に大切にされた普通の人間。
普通の人間たぁどがぁな顔なんじゃろう。―――傷すら付いとらんこんなぁはどがぁな顔をしとるんか。
そう考えてしまうとなんとなく気になってしょうがのぉなって映画なんて頭に入ってこなぃんじゃ。
またこんなぁの顔があるじゃろう方をちらっと覗く。
「―――」
頬があるじゃろう場所に手を伸ばし、絹んように滑らかな肌をそっと撫で下ろす。
「わっ!ど、どうした!?」
動揺したんか焦ったように鳥討は身を後ろへ引く。
「―――いや、何でも」
瞬く間に霧は広がり、ついに首元まで隠れてしもぉたんじゃ。が、見えなくとも顔は存在しとるようでなんとなく安心したんじゃ。
いぬる時、鳥討はずっと黙ったままで見るからに気まずそうじゃったんじゃ。―――まあそうでの。恋愛映画見た後にされたら普通驚くか。
「何してんじゃろ。わし」
いんじゃあと布団の上で静かに目を閉じる。
次はどこに行こうかとただ悩んどったんじゃ。
だってそうせんと仲ようなれんから。
夢なんて叶いっこなくなる。
―――明日は顔見れたらええな
そうは思うが、きっともうこんなぁの顔はもうわしにゃぁ見らりゃぁせんとも、なんとなく思うたんじゃ。そがぁなこたぁとっくに分かっとったし。
クズにゃぁクズなりの夢があるんじゃ
わかって欲しいたぁゆわんし言えん
きっとこがぁなんも、たんじゃの妄想に過ぎないんなんじゃ。わりゃぁ存在してくれとらんのんじゃろう?存在してしまうと都合が良すぎるんじゃ。
心のなかでゆい訳をして、だれかのむせたような咳が部屋に響く中わしゃぁ死ぬように眠ったんじゃ。
――――――――――――――――――――――
学校を出てしばらく行くと西洋風の建物が並んだ一見するとここが日本じゃゆぅことを忘れるような場所があるんじゃ。そこの喫茶店のコーヒーがまた格別なんじゃっちゅぅて千葉っちゅう同室の先輩が言ぅとったんじゃ。
「ドイツ人が経営してんだんじゃ。味も悪ぅなぃんじゃ。まあわしの育ったフランスにゃぁ負けるがな」自慢げに短い髪を揺らす帰国子女の千葉を適当にあしらい、ほいでわしゃぁすぐさまそこへの行き方を書いたメモを貰い、鳥討を探したんじゃ。
「―――われ、わしになんかいなげな気でも起こしとるんか?」
喫茶店に着くと開口一番こがぁなことをゆわれ変に腹が立ったんじゃ。そがぁなことでわれを誘うわけが無いじゃろう。わしの幻覚のくせにどうして都合ようならんのんだんじゃ。
「ちげーよ、たんじゃの友達としての好じゃ」
適当に思いついた言葉をちぃと笑いもって返す。友達なんかはげに要らんかったが、ここにいる理由ばっかし作る為ばっかしにこの偽りの関係を利用したんじゃ。
「ともだち?」
鳥討はそがぁな言葉がいなげなんか、疑問形でぽつりとそがぁなことをゆぅた。
「なあ、ゆわさ―――
「ゴチュウモンハオキマリデスカ?」
なにか喋ろうとした鳥討を遮って外国人のマスターがカタコトの日本語で話しかけてきた。
わしゃぁそんなぁがゆおうとした言葉なんかは気にもとめんかったんじゃ。どうせ後で話そうとしてくるじゃろうし。
「コーヒーを一杯つかぁさい。あとこんなぁは―――」
「あいすくりいむを一つ」
マスターは軽い会釈をしてカウンターに入ってったんじゃ。
「驚いた。ガキみとぉなもんを頼むんじゃのぉ」
そう言ぅて何気ない会話を振っちゃる。鳥討はしばらく考えて、
「食べたこと無かったけぇ食べてみたくて」
と確かにそうゆぅた。どがぁなぼんぼんであってもさすがに食べたことが無いもんもあるじゃろう。変に納得して、運ばれたコーヒーに牛乳と砂糖を入れてぼちぼちとかき混ぜる。ひとくち含むばっかしでコーヒー特有の苦味が口えっとに広がったんじゃ。足りなぃんじゃ。もっとよこせとゆわんばかりに牛乳のまろやかさも消えていく。
「岩崎はわしの事友達じゃのぉんて思うとらんのんじゃろ?」
時間が止まる。
なんでそう思うたんかは知らんが内心を読まれた気がして冷汗が止まらなくなったんじゃ。
「なんでそう思うた」
「変に思うかもしれんが、われの目がおとん上と同じに見えて―――。ホンマはわれもわしなんかにゃぁ興味なんてんのんじゃろ?無関心なんじゃろ?」
―――こんなぁは何を言ぅとる。興味?おとん上?同じ目?なんの事じゃ。
「無関心はわしにもわれにも毒になる。わしを利用したいとゆうんじゃったらやめとけ。利益がない」
利益っちゅう言葉に体がピクっと反応する。いっつもたぁ違うこんなぁの訛ってすらいない標準語が気持ち悪い。
今はまた適当な言葉を返すしか無かったんじゃ。
「わしゃぁそうは思わんがな」
果たして利益はあるっちゅう意味なんか、友達じゃっちゅう意味なんか。どちらの意味でゆぅた言葉なんか。そりゃぁわしにも分からんかったんじゃ。
またなにかゆおうとした鳥討の目の前にアイスクリームが運ばれる。
よう分からん状況に頭の整理が間に合わん。バレとった?でもバレてるってこたぁ利用しようとしてもでけん状態じゃゆぅことじゃ。
―――えかったんじゃ。もうひこずり込めなぃんじゃ。
が気まずいなぁ変わらず、気晴らしに中身がちぃと残ったカップを覗く。ちぃと傾けると溶けきらんかった砂糖が底でキラキラと輝いとる。あの夜のあの星んように。満天の星が広がっていく。
ふと目の前を見る。
目がおぉたんじゃ。
死んだ目。光すら入ってこないほどの漆黒さ。目しか見えんのに、ずっとその目に吸い込まれる。黒い霧も広がっていく。こんなぁの口に運ばれていくアイスクリーム。ぼちぼち、ぼちぼちと溶けていく。見えのぉても何となく想像できるあどけん表情、手ばっかしで分かる病的な白い肌、そがぁなんまるで、まるで―――
「ちづ?」
「―――はあい」
黒ぉ染まりきった鳥討。わしの目の前にゃぁ不敵に微笑むちづの影がおった。
わしゃぁなにかに気づいたようにちづに心の中で問いかける。
「きっとわしもわれと同類なんじゃろう。成り下がってしもぉたんじゃの。叶いっこない夢を永遠と追いかけとる」
「ええそうね」
昔んように嬉しそうにゃぁ答えちゃぁくれんかったんじゃ。
「で、わりゃぁわしにどうして欲しいんなんじゃ。この黒いやつわれのせかろ?」
「違うわよ」
案外バッサリ切り捨てられて何も言えなくなる。
ちづは続ける。
「この黒いもんもあんたが勝手に作ったもんなんよ?言ぅてしまやぁたんじゃの幻覚のぉ。だってわしもあんたが作ったたんじゃの幻覚に過ぎないんじゃけぇ」
そがぁなん知っとる。でもせめてもん救いが欲しぃんじゃ。
「死んだ君がずっと羨ましいわしゃぁはぁ死んでしまいたいんなんじゃ。もう疲れた。夢だってもう叶わんし」
夢を叶えるために突き放した相手に堂々と死にたいなんてことを口駆ける。どうせ幻覚じゃ。何を言ぅてもこんなぁは傷つかん。
「何が現実なんかもわしにゃぁ分からんよ。きっと鳥討も、ここも、全てわしの妄想に過ぎん。ホンマはわしゃぁ死んどるんじゃろう。こがぁなんたんじゃの天罰じゃぁや」
「あらようゆうわぃねぇ、そがぁな中で好きな人は出来たくせに」
またんじゃ。ほいでからに、ようわからん言葉。げに昔からこんなぁはいなげな言葉しか話さん。げに面倒臭い。このキチガイめ。
「あんたぁただそっぽ向いとるだけなんよ。こがぁなもんのせいにして」
ちづはぼちぼちと黒い霧をかき分けた。ちさい虫を払い除けるように。
わしの目の前にゃぁ溶けてすくうことも出来ないアイスクリームが残った器と、小銭が置いてあるだけじゃったんじゃ。
「鳥討―――?」
肝心の本人はおらん。
「ちがう、こんなぁはたんじゃの都合がええだけの幻覚なんだんじゃ。存在するはずなんてなぃんじゃ。われなんか居のぉても、わしゃぁ―――」
よう分からん気持ちでいると机の上に力強く握った拳から血がぽたぽたと落ちる。
「ホンマはわかっとったんじゃろ。みな」
「は?」
その言葉を聞いた瞬間。重いまぶたがパチリと音を立てて開ききる。
わしゃぁ小銭を店主に渡して、釣りすら貰わず、鳥討を駆けって追いかける。
こがぁな気持ち初めてじゃ。
いつしか見たメロスんように駆けって、駆けって、駆けって、息切れを起こしもって、無様に転んで、
はぁ、はぁ、
こがぁに駆けったなぁいつぶりじゃろうか、肺が破れそうなほどの空気を吸い込んだんじゃ。じゃが、なんでか体は新鮮な空気を欲しがらん。吸った瞬間に倦怠感と吐き気が襲う。
目の前にゃぁ一人、とぼとぼと歩くあんなぁの姿。
セミの鳴き声がうざったいほど耳についてくる。
こがぁな感情になるんはきっと夏のせいじゃ。息をするんも苦しぃんじゃ。ただ今ばっかしゃぁ君のことを考えとったいのに。ほんまのことを知りたい。伝えたい。存在を確かめたい。
前を進む腕を緊張の中で力強く掴む、
ほいで告げる
「映画を見に行かんか!」
そこにゃぁ勢いよう振り向いた、雨に濡れた黒曜石んような目がよう似合う顔立ちで、優美なあどけなさが印象的な愛おしさすら覚えるわれがおった。
わりゃぁ口を開く
「ほんとよう分からんやつじゃのぉ―――わりゃぁ」
泣きそうな声で、泣きそうな目で、そがぁにわりゃぁ笑顔で振り向いた。
あぁ、幻覚じゃなかったわりゃぁ存在しょぉってくれたんじゃの。
鼓動が早(はよ)ぉなる。ぼちぼち。ぼちぼちと、時間をかけて
わしゃぁわれともっと話したい。君を知りたい。
ほいで、つまりもせんし、われを悲しませてしまうかもしれんが、われを利用してでもわしゃぁ夢を叶えたい。
でも、その代わり、絶対にわれを幸せにしちゃる。
そう勝手に誓った
自分勝手がすぎる
自分の気持ちが分からのぉなってゆくこがぁなん自分じゃらん。
――――――――――――――――――――――
普通っちゅうもんにゃぁこんなぁは慣れとらんらしぃんじゃ。こんなぁは箱入り息子でなかなか外にゃぁ出られず、出るとしてもここに来る前は敷地内や小学校へ行くための決まった道だけしか出られんかったそうじゃ。遊び相手も兄弟としか許されんかったようで。わしもたしかに出られるところは制限はされとったがここまでじゃぁなかったゆぅて思う。
そがぁに親に溺愛されとるけぇなんか?さすが大富豪じゃ。としかゆいようがなぃんじゃ。
「そがぁなくせに金はねえんでな」
ぎこちなくアイスクリームを食べる鳥討を横目にそがぁなことをつぶやく。
きょうびは中国との戦争のせいなんか物価が高騰しとる。わしにとっちゃぁあまり困ることじゃぁ無いが、鳥討にとっちゃぁそうもいかんらしゅぅて、家からの仕送りすらまともにないようで、好きになったアイスクリームすら食べらりゃぁせんようじゃ。
「すまん。資本家の息子が金欠なんてなあ」
あまりに申し訳なさそうに笑いもって顔を俯かせるけぇ、文句すらゆう気にならんかったんじゃ。
「別にええ。好きな物は好きなだけ食べたい気持ちも分かる」
わしゃぁぼちぼちと机に置かれたティーカップを混ぜる。
「いつか何かの形で返すから―――」
急な言葉じゃったがいまいち驚きもなぃんじゃ。
「ああ、いつかな」
今すぐにでもそれを形にして欲しいたぁ内心思うたが、さすがに口にする勇気はわしにゃぁなかったんじゃ。
「わりゃぁ将来何になりたいんじゃ?」
しばらく沈黙が続く中そがぁな言葉が投げかけられる。
「わしゃぁ…」
また沈黙が続く。言ぅてええ事なんか分からんまま。時間が過ぎる。ほら、夢はゆうと叶わんなんて言葉もあるじゃろう?口は開くが肝心の言葉が出てこなぃんじゃ。こんなぁはわしの家が時計屋じゃゆぅことを知っとる。きっとこがぁな無責任な夢なんて笑われてしまうじゃろう。そろそろこがぁなことに慣れてしまいたい。無責任ななぁ元からだし、鳥討はこがぁなことで笑う奴じゃぁなぃんじゃ。わしの口から出る一言一言がいちいちわし自身を悩ませる。
ふと前を見るとアイスクリームが溶けて染み込んだウエハースをまるで貴族かんように上品に食べる鳥討がおった。こちらのことをたまに気にして、ちらちらとこっちに目を合わせとったんじゃ。
ウエハースを食べ終わった鳥討が痺れを切らしてゆう。
「こがぁな話去年もした気がする。われも相変わらずじゃのぉ」
そがぁな気を使った言葉をかけられる。
なんだか情けなく感じるし、呆気なくも感じる。
店主に小銭を渡してぼちぼちと二人でバス停まで歩く。
その道中飛行場から飛び立ったばかりか着陸前なんか一機の飛行機が一直線に飛びよぉったんじゃ。
無意識のうちに目で追いかけた。
そがぁなん姿を見てか鳥討は聖おかんのんようなほほ笑みで、
「どがぁな夢であっても、わしゃぁ素敵じゃゆぅて思うぞ」
そう言ぅてきた。
こんなぁは心でも読めるんじゃろうか。
「その言葉遣い気味が悪いな」
こがぁな言葉しか今は浮かばんかったんじゃ。
ゆわれた言葉が心外じゃったんか、ぺちぺちと叩いてくる鳥討を見ょぉると笑いが込み上げてきた。
先輩方から柔道の練習を受けとるくせに、力も弱い。じゃけぇすぐ投げられるんじゃ。
げに女々しいやつじゃ。
「げに、可愛いやつじゃのぉわりゃぁ」
「っ!なんじゃわれ!」
背中をバチンと叩かれた。微妙に痛い。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
年末の大掃除のテゴをそそくさと終わらせて洋室の弱まった暖炉の火に薪をくべる。暖炉の火は喜んどるようにぱちぱちと音を立てながら薪を食べょぉる。そがぁな様子を眺めながらわしゃぁよう冷えた霜焼けの手足をそっちへ向けた。
「ケンタ!ようもまあ友達が掃除をテゴしてくれとる中で一人だけ温まろうゆぅて思えるねぇ!」
振り返るとそこにゃぁ鬼んような顔をした姉の姿があったんじゃ。
「うげ、ねーちゃんかよ」
「ねーちゃんかよじゃなゆわよ!ちゃっちゃとテゴの。このボンクラ!」
バタバタと急ぎ足で出ていく姉を見送った後、馬鹿力女からの暴力は受けとぉないのでしゃぁなく重い腰をあげようたぁしたが、その前にそばに置いてあった畳んだばかりの半纏を引き寄せようと寝ながら足を伸ばしたんじゃ。
「あの、お姉さん。この荷物はここでええか?」
「あら、ありがとうね鳥討クン。いやあ、うちの弟たちたぁ大違いのぉ。取り替えたいぐらいだわ―――」
隣の部屋から聞こえる急な鳥討の声に焦りもって、すぐさま立ち上がりもちぃとで足が届きそうじゃった半纏を手で拾い、それを重ねて着る。聞き耳を立てると鳥討の「いえいえ」ゆぅて謙遜する声が聞こえた。姉はまだまだ話し足りなさそうなんでもう暫くは戻っちゃぁ来なかろう。忍び足で自室へ行き、勝手にわしの雑誌を読みもってわゆわいと話しとる兄達の頭を叩く。結構ええ音で鳴ったんじゃ。きっと中身は落花生みたいに空間でもあるんじゃろう。
「いった!尊敬する兄ちゃん達に何すんだケンタ!」
「人の部屋に勝手に入っといて何言ぅてんで!―――うわっ」
次男の正治が声を荒らげながらわしを床に押さえつけた。
「兄貴たちを叩いてきたってこたぁそんぐらいの仕返しもされる覚悟があったてゆうことでなぁ」
「雅紀にーちゃん!?」
「兄ちゃんやっちまえ!」
がははと正治の笑い声が部屋に響く中、のっそりと立ち上がる長男の雅紀が半纏の紐に手を伸ばしたんじゃ。
「はー!極楽極楽!」
「おいケンタわしのぶんも持ってこい!さもないとその袴と着物剥ぎ取って褌一枚と帽子ばっかしで店前の雪片付けさせるかんな!」
兄たちに着たばかりの半纏を取られてしまい、がっかりした気持ちで正治にゆわれた通り半纏を探しにまたもや忍び足で歩いてゆく。
「うぅ、寒う」
さっきの洋室の前まで行くと、姉の椿がまだ鳥討と楽しそうに話しとる声が聞こえた。兄たちの悪業を告げ口をしちゃろうかとも思うたが結局は三人仲よう褌一枚で雪かきじゃろう。そう想像するとゾッとして、ちぃと小駆けりになる。焦りのせいか若干目の前が歪んで見える。
服が閉まってある箪笥がある部屋まであと残り五十メートルくらい?まで来た頃。後ろから物音がし、急いでちこぉの部屋に隠れた。そこは浴室で、さっき溜まったばかりなんか湯船に乗った蓋の間から湯気が出てきとったんじゃ。足音は、こっちへ向こぉてくる。「うわっ!失敗した!」そう思うて心は今すぐにでも逃げるべきだと問いかけてくる。じゃが寒さでおかしゅうでもなったんじゃろうか、暖かそうじゃのぉとどうでもええ事ばかりが内心頭に浮かんどったんじゃ。目の前が只々揺れとる。
「うわっ、すんません。誰か入っとるゆぅて思わんくて―――い、ゆわさき!?」
「鳥討…われさっきまでねーちゃんと話してんかったか?」
「そうなんやが、疲れたやろうから風呂はいつまできんさいゆわれて」
「…ほうか、驚かせてすまなかったな」
そう聞いた瞬間身体の力がドバっと抜けた。ほいで入ってきたのが姉でのぉてえかったと心底思う。わしゃぁそのまま引き戸に手をかけようとしたんじゃ。なんぼ浴室じゃゆっても冬は冬。足元にできた湯溜まりがすぐに冷水になっていくんを感じる。尋常じゃぁない寒さ、服を着とってこれなんじゃ。着物をちぃたぁだけさせながら立っとる鳥討の方が辛いに決まっとる。鳥討にも申し訳もできゃぁせん。
「いや、その前になんでわれがおるんや。われだっと姉さんに掃除やれゆわれとったし」
一目散にも出ていきたい気持ちがたったの一言によってさらに強くなる。
「風呂掃除しようゆぅて思うたけぇじゃ。とにかく出るよわれも寒かろ…」
下手くそな嘘でたちまちその場を収めようとしたんじゃ。せっかく気をつこぉちゃっとるんになんてことも思うたが、気を使いあっとるんは相手もおなじじゃゆぅて考えをもっぺんみた。きっとそっちの方が考えのぉて済むから―――とにかく、わしゃぁ引き戸をぼちぼちと引いた。
「ま、待ってくれんさい!」
後ろからまたわしを引き止める声がしたんじゃ。今度の言葉にゃぁさすがにイラつきを隠すことも出来なぃんじゃ。「もうえかろう」ゆぅて、素っ気ない言葉で返してしもぉたんじゃ。
「岩崎も風呂入ろう!」
―――は?
「あ、違っ―――別にそがぁな好意とかそがぁな気持ちじゃのぉて…べ、別にえかろ!?寮でも一緒に入ることもあるし―――。とにかく、われも寒そうだし、今話したいことあるから…だめか?」
―――。
「だ…だめでな!すまん忘れてくれ、たんじゃの冗談にしちゃぁ流石に気色悪かったな!ははは…何言ぅてんだわし―――」
―――。
広い訳でもなくかゆって狭い訳でもない湯船が妙に体に適合する。じゃがそがぁなことも忘れるくらいのことが今起こっとるんじゃ。何となく実感する。
寮の風呂はそがぁなことなんか意識なんてしたこと無かったんじゃ。多分うるさい先輩方の話を聞きすぎてそがぁなことを思う暇なんてもんがなかったんじゃろう。それに隣の鳥討の顔がお湯が熱いせいか、はたまた恥ずかしがっとるんか、頬と耳があこぉ火照っとる。そがぁな顔をされちゃぁこちらも反応に困るじゃろう。
やっと鳥討の口が開かれる、
「岩崎は優しいのう…」
「っ…どこがじゃぁや」
「ええと、わしのこうゆうわがままを真剣に受け止めてくれたりとかじゃろうか」
急な方言を使った慣れん言葉に違和感を覚えた。
「われ、ねーちゃんに酒でも飲まされたんか?」