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夜半。屋敷の灯はすでに落ち、使用人たちも皆それぞれの部屋で静かに息を潜めている時間。

 規則正しい筆音の中に、控えめなノックが混ざった。

「……入って」

 返事を待って、扉が音もなく開く。

「お夜食を、お持ちしました」

 夜着に黒のエプロンをかけた勝己が、トレイを抱えて一礼した。首元に飾られたボルドーのリボンが、蝋燭の灯に揺れていた。

「ありがとう、かっちゃん。……もう遅いのに」

「……ご主人様が眠らないうちは、召使いが先に休むのは失礼でしょう?」

 トレイを机に置きながら、さらりとした口調で返す。そのくせ、カップを差し出す指が、ほんの少しだけ触れるように、けれど自然に計算された角度で出久の手に当たった。

 出久は眉一つ動かさず、それを受け取る。

「今日は、柑橘のハーブにしました。目も冴えますし」

 そう言って、微かに笑った。いつもの仏頂面ではなく、珍しく口元に浮かぶ柔らかな笑み。どこか計算が混ざっているような。

 椅子の隣に控えて、勝己は静かに出久を見上げる。自然と膝を揃えて腰を下ろし、身体の角度をややこちらに傾けて。視線だけを上に。まっすぐに、見つめた。

「出久様。……俺、今日、頑張ったんです。食堂の在庫、全部管理しました。客人の予定表もまとめて」

「うん。知ってるよ。執事が報告してた」

「……ご褒美は?」

「ふふ、それは領主じゃなくて、父様の役目かな」

「でも……俺が仕えてるのは、“今この屋敷を治めてる”ご主人様、でしょ?」

 目を逸らさず、声のトーンをほんの少しだけ落とした。けれど語尾は柔らかく、どこまでも礼儀正しい。すべてはぎりぎりのところで品の範囲に収められていた。

 出久は湯気の立つカップに視線を落とし、少しだけ息をついた。

「じゃあ……美味しかったら、それがご褒美ってことで」

 紅茶を一口。確かに香りも味も上出来だった。けれど、目を合わせないようにしていた自分に気づいて、出久は軽くまばたいた。

 勝己の脚がそっと揃えられ、足首のリボンがひらりと揺れる。

 ほんのわずかな色気が香る。けれど、それは“未完成”で、“計算しきれていない”。

「……かっちゃん、もう戻ったほうがいいよ。寝不足は、成長に良くない」

 そう言いながら、彼の頭にそっと手を伸ばす。髪に触れる直前、勝己が少しだけ背を引いた。けれど、それもまるで「撫でられるのを拒まない」ように見える距離だった。

 微笑みのまま、手はそのまま髪に触れた。子どものころと変わらない、やわらかな金色の髪。

 出久は立ち上がり、扉へと歩き出す。勝己の方を見ずに、ただ自然な動作として。

「案内するよ。……真っ暗だから、転ばないようにね」

 しばしの沈黙。

 勝己は小さくため息をついて立ち上がった。お辞儀ひとつ、背筋の通った姿勢で。

「……お休みなさいませ、出久様」

「うん。おやすみ、かっちゃん」

 静かに扉が閉まり、また部屋に夜の静寂が戻る。

 出久は、カップを持ったまま動かない。手の中で、紅茶の湯気がゆっくりと消えていく。

 少しして、机の角に額を預けるようにして、彼は天井を見上げた。

 しばらくの沈黙。

 そして、小さく、微かに——

「…………だめだって……ほんと……」

 目を閉じて、つぶやくような吐息。吐き出すように残った空気と共に、重くなった肩が揺れた。

 音もなく、灯がまた一つ揺れた。
↓広島弁でいうと…
夜半。屋敷の灯ははぁ落ち、使用ひとらも皆それぞれの部屋で静かに息を潜めとる時間。

 規則正しい筆音の中に、控えめなノックが混ざったんじゃ。

「……入って」

 返事を待って、扉が音もなく開く。

「お夜食を、お持ちした」

 夜着に黒のエプロンをかけた勝己が、トレイを抱えて一礼したんじゃ。首元に飾られたボルドーのリボンが、蝋燭の灯に揺れとったんじゃ。

「ありがとう、かっちゃん。……はぁとろいのに」

「……ご主人様が眠らんうちは、召使いが先に休むんは失礼じゃろう?」

 トレイを机に置きもって、さらりとした口調で返す。そのくせ、カップを差し出す指が、ほんのちぃとだけ触れるように、が自然に計算された角度で出久の手に当たったんじゃ。

 出久は眉一つ動かさず、それを受け取る。

「今日は、柑橘のハーブにしたんじゃ。目も冴えますし」

 そう言ぅて、微かに笑ったんじゃ。いっつもん仏頂面じゃぁのぉて、珍しゅう口元に浮かぶ柔らかな笑み。どこか計算が混ざっとるようの。

 椅子の隣に控えて、勝己は静かに出久を見上げる。自然と膝を揃えて腰を下ろし、身体の角度をややこちらに傾けて。視線ばっかし上に。まっすぐに、見つめた。

「出久様。……わし、今日、頑張ったんじゃ。食堂の在庫、みな管理したんじゃ。客人の予定表もまとめて」

「うん。知っとるよ。執事が報告しょぉった」

「……ご褒美は?」

「ふふ、そりゃぁ領主じゃのぉて、おとん様の役目かな」

「でも……わしが仕えとるんは、“今この屋敷を治めとる”ご主人様、じゃろ?」

 目を逸らさず、声のトーンをほんのちぃとだけ落としたんじゃ。が語尾はやおぉ、どこまでも礼儀正しぃんじゃ。すべちゃぁぎりぎりのところで品の範囲に収められとったんじゃ。

 出久は湯気の立つカップに視線を落とし、ちぃとだけ息をついた。

「じゃあ……美味しけりゃぁ、それがご褒美ってことで」

 紅茶を一口。確かに香りも味も上出来じゃったんじゃ。が、目を合わせんようにしょぉった自分に気づいて、出久はかるぅまばたいた。

 勝己の脚がそっと揃えられ、足首のリボンがひらりと揺れる。

 ほんのわずかな色気が香る。が、そりゃぁ“未完成”で、“計算しきれとらん”。

「……かっちゃん、はぁ戻ったほうがええよ。寝不足は、成長にようない」

 そうゆいもって、あんなぁの頭にそっと手を伸ばす。髪に触れる直前、勝己がちぃとだけ背を引いた。が、それもまるで「撫でられるんを拒まん」ように見える距離じゃったんじゃ。

 微笑みのまま、手はそのまま髪に触れた。ガキのころと変わらん、やおい金色の髪。

 出久は立ち上がり、扉へと歩き出す。勝己の方を見んとぉに、ただ自然な動作として。

「案内するよ。……真っ暗じゃけぇ、転ばんようにね」

 しばしの沈黙。

 勝己はこもぉため息をついて立ち上がったんじゃ。お辞儀ひとつ、背筋の通った姿勢で。

「……お休みんさいませ、出久様」

「うん。おやすみ、かっちゃん」

 静かに扉が閉まり、また部屋に夜の静寂が戻る。

 出久は、カップを持ったまま動かん。手の中で、紅茶の湯気がぼちぼちと消えていく。

 ちぃとして、机の角に額を預けるようにして、あんなぁは天井を見上げた。

 しばらくん沈黙。

 ほいで、こもぉ、微かに——

「…………だめだって……ほんと……」

 目を閉じて、つぶやくような吐息。吐き出すように残った空気と共に、おもぉなった肩が揺れた。

 音ものぉて、灯がまた一つ揺れた。
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