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  英国製のツィードの服にゆったりと身を包んだエラリー・クイーン氏は、物思いにふけりながら、大学のあの城塞のように壮麗な、人文学館の八階の廊下を、いわば苦労しながら進んでいった。着るものにうるさいエラリーのことだから、そのツィードの服はまぎれもなくロンドンはボンドストリートの舶来品だったが、一方、心中の思いのほうは、若い男女のあの独特の学生用語がしきりと耳に飛びこんでくるのと、彼自身が一九一〇年代にハーバードの学生だったこともあって、アメリカ臭いものにならざるを得なかった。  大声を張りあげている学生たちの一団をステッキの石突きでかきわけるようにして進みながら、エラリーは、ニューヨークではこれが高等教育ってものなのか、と皮肉っぽく独りごちた。鼻眼鏡のレンズの奥で銀色の目をなごませ、ため息をついた。犯罪現象を研究する職業柄必要不可欠な、あの鋭い観察眼の持ち主である彼としては、すれちがう種々雑多な女子学生たちの、ぼたんいばらのようなクリームがかったピンクの肌や、溌剌とした目や、柳のようにしなやかな肢体がいやおうなしに目についたからだ。わが母校も、教育的美徳の鑑ではあったが、むくつけき男どもばかりの教室にこうした香ぐわしい匂いのする女子学生たちをちりばめていたら、さらに結構な、はるかに楽しいところになっていたかもしれない――いや、まったく! ――と、彼は沈痛な思いに暮れた。  こうした教師らしからぬ考えを頭から払いのけつつ、エラリー・クイーン氏は、クスクス笑っている娘たちの大群の中を用心深くじりじりと前進して、目的の八二四番教室に威厳をもって近づいていった。  彼はふと立ち止まった。背が高く、きりっとした顔立ちの、子鹿色の目をした若い女性が、閉めきったドアにもたれて、自分のことを待ち伏せているらしい様子がありありとわかったので、彼はぴったりと体を締めつけるツィードの内側でひそかに狼狽を――いやはや! ――感じはじめた。実際、相手は『応用犯罪学、クイーン講師』と書いた小さな張り紙にもたれかかっていたのだ。  これはもちろん冒涜的行為だが……。子鹿色の目が熱っぽく、賞賛を、ほとんど畏敬の念を、こめて彼の顔を見あげた。かかる窮地に立たされた場合、教授諸公ならどうするのだろう、とエラリーは思案に暮れて、押し殺した声でうなった。相手の女らしい容姿を無視して、毅然たる態度で話しかけるべきか――?  その決断は彼の手からもぎとられて、いわば腕に置かれた。山賊娘が彼の左の二の腕を熱っぽく力をこめてつかむと、柔かく澄んだ声でこう言ったのだ、「あなた、エラリー・クイーンさんでしょ?」 「わたしは――」 「あたしにはちゃんと|わかったわ。すごくすてきな目をしてらっしゃるんですもの。とても変わった色で。ああ、スリリングなことになりそうですわね、クイーン先生!」 「失礼だが、あなたは?」 「あら、まだ言ってませんでしたわね?」彼が気づいてちょっとびっくりしたほど、不自然なまでに小さな彼女の手が、痛くなるほどきつくつかんでいた彼の筋肉をはなした。彼に対する評価が多少下落したように、彼女は手きびしく言った、「でも、有名な探偵でいらっしゃるくせに。ふーん。また幻滅だわ……。もちろん、イッキーがあたしをここへよこしたんです」 「イッキー?」 「それさえもおわかりにならないの。あきれた! イッキーっていうのはイクソープ教授のことよ、学士、修士、博士、その他もろもろの肩書つきのね」 「ああ! だんだんわかってきましたよ」 「もうとうにわかっていい頃だわ」と娘はきめつけた。 「それからね、イッキーはあたしの父ってわけ……」彼女は急にひどくはにかんだ。とにかくエラリーがそうと見てとったのは、信じられないくらいそりかえった黒いまつげが、不意に濃い茶色の目をおおい隠したからだった。 「それでわかりましたよ、イクソープさん」イクソープか! 「何もかもじつにはっきりとわかりました。わたしを――その――そそのかしてこの風変りな講座を受け持たせたのがイクソープ教授だから、そしてあなたはイクソープ教授のお嬢さんだから、うまくちょろまかせばわたしのグループにもぐりこめると思っているんでしょう。とんだお門違いですな」そう言って、エラリーはステッキを軍旗のようにまっすぐ床に突っ立てた。「そうはいきません。だめです」  彼女の靴の先でいきなりステッキを蹴られて、彼は倒れまいとぶざまに体を泳がせた。「お高くとまりっこなしよ、クイーン先生……さあ! もう話はすんだわ。中へ入りません、クイーン先生? ほんとにすてきなお名前だこと」 「しかし――」 「イッキーがもうすっかりことを運んじゃったんです、さすがね」 「断じておことわ――」 「会計係にお賽銭も払いこんであるし。あたしもう学部は卒業して、目下のところ修士号を取るためにここで道草食ってるんです。これでもほんとはとっても頭がいいんですからね。さあさあ――そんなに教授面するのはおよしなさいよ。あなたみたいなすてきな若い男性には似合わないわ、そんなまいっちゃいそうな銀色の目をしてるくせに――」 「まあ、いいでしょう」エラリーは急に気をよくして言った。「いっしょに来たまえ」  そこは小さなゼミナール用の教室で、両側に椅子を並べた長いテーブルが置いてあった。二人の青年が、エラリーの見たところ、かなり丁重な物腰で、立ち上がった。ミス・イクソープの姿を見て彼らはびっくりしたようだったが、さして気落ちした様子でもなかった。この女子学生はどうやら誰知らぬ者のない人物らしかった。青年の一人が勢いよく前に進み出て、エラリーの手を握り、上下にゆさぶった。 「クイーン先生! ぼくはバロウズ、ジョン・バロウズです。あのものすごい探偵志願者の群れの中からぼくとクレーンを選んでくださってどうも」明るく澄んだ目といい、細面の利口そうな顔といい、これはなかなか好青年だ、とエラリーは断定した。 「そいつはまあ、きみの先生がたや、きみ自身の成績のおかげだよ、バロウズくん……で、きみはもちろんウォルター・クレーンくんだね?」  もう一人の青年が礼儀正しく、まるで儀式のようにエラリーと握手をかわした。こちらは長身で肩幅が広く、勉強家らしい感じも嫌味がなかった。「そうです、先生。化学で学位を受けました。あなたや教授がなさろうとしていることに、ぼくはじつに興味津々なんです」 「結構。イクソープさんは――まったく思いがけなく――我々のささやかなグループの四人目のメンバーということになります」とエラリーは言った。「まったく思いがけなくね! さてと、坐ってじっくり話し合いましょう」  クレーンとバロウズがどさりと椅子に体を投げ出し、くだんの女子学生は殊勝らしくそっと腰をおろした。エラリーは帽子とステッキを隅のほうに無造作に置いて、むきだしのテーブルの上で両手を握り合わせ、そして白い天井を見上げた。いよいよ、はじめなくてはならない……。 「これはまあどちらかと言えばまったく馬鹿げた試みですが、それでも多少はまともなところもあるわけでね。イクソープ教授が先日あるプランをもってわたしのところに見えられた。純粋に分析のみで犯罪を解決することにかけての小生のささやかな業績を耳にされて、教授は若い学生諸君を対象にして、推理による探知能力を育ててみたらおもしろかろうと考えられたのですな。自分自身大学生だったことのあるわたしとしては、あまり確信はなかったんですがね」 「この頃では、あたしたち学生はむしろ頭脳的になってますわ」とミス・イクソープが言った。 「ふむ。それはいずれわかる」エラリーはそっけなく言った。「これは規則違反なんだろうけど、わたしはタバコがないとものを考えられなくてね。諸君も吸っていいですよ。やりませんか、イクソープさん?」  彼女はうわのそらで一本取り、自分のマッチを出したが、その間もエラリーの目をじっと見つめつづけた。
↓大阪弁でいうと…
  英国製のツィードの服にゆったりと身を包んだエラリー・クイーン氏は、物思いにふけりながら、大学のあの城塞のように壮麗な、人文学館の八階の廊下を、いわば苦労しながら進んでいった。着るものにうるさいエラリーのことやから、そのツィードの服はまぎれもなくロンドンはボンドストリートの舶来品やったが、一方、心中の思いのほうは、若い男女のあの独特の学生用語がしきりと耳に飛びこんでくるのと、彼自身が一九一〇年代にハーバードの学生やったこともあって、アメリカ臭いものにならざるを得なかった。  大声を張りあげとる学生たちの一団をステッキの石突きでかきわけるようにして進みながら、エラリーは、ニューヨークではこれが高等教育ってものなのか、と皮肉っぽく独りごちた。鼻眼鏡のレンズの奥で銀色の目をなごませ、ため息をついた。犯罪現象を研究する職業柄必要不可欠な、あの鋭い観察眼の持ち主である彼としては、すれちがう種々雑多な女子学生たちの、ぼたんいばらのようなクリームがかったピンクの肌や、溌剌とした目や、柳のようにしなやかな肢体がいやおうなしに目についたからや。わが母校も、教育的美徳の鑑ではあったが、むくつけき男どもばかりの教室にこうした香ぐわしい匂いのする女子学生たちをちりばめとったら、さらに結構な、はるかに楽しいトコになっとったかもしれへん――いや、まるっきし! ――と、彼は沈痛な思いに暮れた。  こうした教師らしからぬ考えを頭から払いのけつつ、エラリー・クイーン氏は、クスクス笑っとる娘たちの大群の中を用心深くじりじりと前進して、目的の八二四番教室に威厳をもって近づいていった。  彼はふと立ち止まった。背が高く、きりっとした顔立ちの、子鹿色の目をした若い女性が、閉めきったドアにもたれて、オノレのことを待ち伏せとるらしい様子がありありとわかったさかい、彼はぴったりと体を締めつけるツィードの内側でひそかに狼狽を――いやはや! ――感じはじめた。実際、相手は『応用犯罪学、クイーン講師』と書いた小さな張り紙にもたれかかっとったのや。  これはもちろん冒涜的行為やけど……。子鹿色の目が熱っぽく、賞賛を、ほとんど畏敬の念を、こめて彼の顔を見あげた。かかる窮地に立たされた場合、教授諸公ならどうするのやろう、とエラリーは思案に暮れて、押し殺した声でうなりよった。相手の女らしい容姿をシカトして、毅然たる態度で話しかけるべきか――?  その決断は彼の手からもぎとられて、いわば腕に置かれた。山賊娘が彼の左の二の腕を熱っぽく力をこめてつかむと、柔かく澄んだ声でこう言ったのだ、「あんはん、エラリー・クイーンはんでしょ?」 「わいは――」 「あたしにはちゃんと|わかったわ。すごくすてきな目をしてらっしゃるんやもの。どエライ変わった色で。ああ、スリリングなことになりそうやわね、クイーン先生!」 「失礼やけど、あんはんは?」 「あら、まだ言ってまへんやったわね?」彼が気づいてちーとばかしびっくりしたほど、不自然なまでに小さな彼女の手が、痛くなるほどきつくつかんでいた彼の筋肉をはなした。彼に対する評価が多少下落したように、彼女は手きびしく言った、「でも、有名な探偵でいらっしゃるくせに。ふーん。また幻滅だわ……。もちろん、イッキーがあたしをここへよこしたんや」 「イッキー?」 「それさえもおわかりにならへんの。あきれた! イッキーっていうのはイクソープ教授のことよ、学士、修士、博士、その他もろもろの肩書つきのね」 「ああ! だんだんわかってきたんやよ」 「もうとうにわかってええ頃だわ」と娘はきめつけた。 「ほんでね、イッキーはあたしの父ってわけ……」彼女は急にひどくはにかんや。とにかくエラリーがそうと見てとったのは、信じられななんぼいそりかえった黒いまつげが、不意に濃い茶色の目をおおい隠したからやった。 「それでわかったんやよ、イクソープはん」イクソープか! 「なあんもかもじつにはっきりとわかったんや。わいを――その――そそのかしてこの風変りな講座を受け持たせたのがイクソープ教授やから、ほんであんはんはイクソープ教授のお嬢はんやから、うまくちょろまかせばわいのグループにもぐりこめると思っとるんでっしゃろ。とんだお門違いやな」そう言って、エラリーはステッキを軍旗のようにまっすぐ床に突っ立てた。「そうはいきまへん。だめや」  彼女の靴の先でいきなりステッキを蹴られて、彼は倒れまいとぶざまに体を泳がせた。「お高くとまりっこなしよ、クイーン先生……さあ! もう話はすんだわ。中へ入りまへん、クイーン先生? ホンマにすてきなお名前だこと」 「せやけどダンはん――」 「イッキーがもうすっかりことを運んやったんや、さすがね」 「断じておことわ――」 「会計係にお賽銭も払いこんであるし。あたしもう学部は卒業して、目下のトコ修士号を取るためにここで道草食ってるんや。これでもホンマはとっても頭がええんやろからね。さあさあ――そないなに教授面するのはおよしなさいよ。あんはんみたいなすてきな若い男性には似合いまへんわ、そないなまいっちゃいそうな銀色の目をしてるくせに――」 「まあ、ええでっしゃろ」エラリーは急に気をよくして言った。「いっしょに来たまえ」  そこは小さなゼミナール用の教室で、両側に椅子を並べた長いテーブルが置いてあった。二人の青年が、エラリーの見たトコ、かなり丁重な物腰で、立ち上がった。ミス・イクソープの姿を見て彼らはびっくりしたようやったが、さして気落ちした様子でもなかった。この女子学生はどうやらどなたはん知らぬ者のない人物らしかった。青年の一人が勢いよく前に進み出て、エラリーの手を握り、上下にゆさぶった。 「クイーン先生! ぼくはバロウズ、ジョン・バロウズや。あのものどエライ探偵志願者の群れの中からぼくとクレーンを選んでくださってどうも」明るく澄んだ目とええ、細面の利口そうな顔とええ、これはなかなか好青年だ、とエラリーは断定した。 「そいつはまあ、きみの先生がたや、きみ自身の成績のおかげだよ、バロウズくん……で、きみはもちろんウォルター・クレーンくんだね?」  もう一人の青年が礼儀正しく、まるで儀式のようにエラリーと握手をかわした。ウチは長身で肩幅が広く、勉強家らしい感じも嫌味がなかった。「そうや、先生。化学で学位を受けたんや。あんはんや教授がなさろうとしとることに、ぼくはじつに興味津々なんや」 「結構。イクソープはんは――まるっきし思いがけなく――うちらのささやかなグループの四人目のメンバーちうことになるんや」とエラリーは言った。「まるっきし思いがけなくね! さてと、坐ってじっくり話し合いまひょ」  クレーンとバロウズがどさりと椅子に体を投げ出し、くだんの女子学生は殊勝らしくそっと腰をおろした。エラリーは帽子とステッキを隅のほうに無造作に置いて、むきだしのテーブルの上で両手を握り合わせ、ほんで白い天井を見上げた。いよいよ、はじめなくてはならへん……。 「これはまあどちらかと言えばまるっきし馬鹿げた試みやけどアンタ、それでも多少はまともなトコもあるわけでね。イクソープ教授が先日あるプランをもってわいのトコに見えられた。純粋に分析のみで犯罪を解決することにかけての小生のささやかな業績を耳にされて、教授は若い学生諸君を対象にして、推理による探知能力を育ててみたらおもしろかろうと考えられたちうワケやな。オノレ自身大学生やったことのあるわいとしては、あまり確信はなかったんやけどアンタね」 「きょうびでは、あたしたち学生はむしろ頭脳的になってまんねんわ」とミス・イクソープが言った。 「ふむ。それはいずれわかる」エラリーはそっけなく言った。「これは規則違反なんやろうけど、わいはタバコがないとものを考えられなくてね。諸君も吸ってええや。やりまへんか、イクソープはん?」  彼女はうわのそらで一本取り、オノレのマッチを出したが、その間もエラリーの目をじっと見つめつづけた。
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